ニートや引きこもりは正解【学校に行きたくない人が正しい理由】
今の日本社会が抱えている欠陥の中でも、特に悩ましい欠陥は間違いなく学校という場所が最高につまらない場所で、あまりにも無意味で、毎日通う価値など全くないということだろう。きっと今日も多くの学生たちが学校に苦しめられ「学校に行きたくない」と心の中で叫んでいると思う。
残念ながら今の日本社会においては、どんなに学校に行きたくなくても、どんなに授業がつまらなくても学校に行かないといけないし、友達からいじめられていても、ひどい嫌がらせを受けていても、あなたの親は学校へ行くようにと毎朝あなたを叩き起こす。
「いじめられているから学校に行きたくない」と親に訴えてもきっと無駄だろう。「そんな考え甘い」とか「もっと頑張りなさい」とか言われるだろうし、「嫌がらせを受けているから学校を辞めたい」と頼み込んでも「そんなのダメだ」とか「あなたが悪い」とか言われるのがオチである。
さらに酷いのは、あなたが学校に我慢できなくなってニートや引きこもりになる場合である。疲れ果てて寝ているあなたに優しい言葉をかけるのかと思えば、そんなことは全然ない。あなたの親は「そろそろ学校へ行ってみたら」とか「今日の夕方うちに先生がいらっしゃるわよ」などと、あなたの気持ちを踏みにじる言葉を平気でかけてくる。
学校の廊下の隅っこにあるカウンセリングルームのおばさんだって当てにならない。最初は「私はあなたの味方だよ」みたいな優しいことを言ってくれるものだから、あなたも「この人は信頼できるかも」と思うかもしれない。だけど、やっぱり最後は「じゃあ一緒に頑張ってみようか」とか「3限目まで頑張ってみようか」などとバカみたいな提案をしていくるのがオチである。
ニートや引きこもりに対する世間の風当たりは冷たい。背負っている悲しみや心の傷などに優しい言葉がかけられることは少ない。学校に行けなくなったニートや引きこもりのことを見下す人は多い。「考えが甘い」とか「社会を分かってない」とか言ってバカにしてくる大人たちだって大勢いる。
致命的なのは、ニートや引きこもりになった人が心療内科や精神科に連れて行かれる場合だろう。ニートや引きこもりになった子供をどうにかしようと、親は子供を心療内科や精神科へと引っ張って行く。「先生に診てもらいましょう」とか「このお薬を飲めばいいのよ」とか言ってくる。これがまたバカとしか言いようがない選択なのである。
グラグラ煮立っているお風呂のお湯に、無理やり押し込まれる子どもの気持ちを想像して欲しい。そんな熱いお風呂に入れられたら大火傷を負ってしまうだろう。だから子供は抵抗するし、なんとか熱いお湯を避けようとその場から逃げる。しかし気が狂ったのかなんなのか親は追いかけてくる。そして無理やり熱いお湯をかけてくる。バカとしか言いようがないではないか。
若者たちがニートになるのは、ただ単純に学校の環境が悪いからであって心が病気になってしまったわけではない。彼らの心は病気になんかなっていない。病気になっているのは学校教育の方である。
若者たちが引きこもりになるのは、ただ単純に親がギャーギャーわめくからであって若者たちの精神が変になったからではない。彼らの精神はいたって正常である。正常であるから無能な学校教育に対して拒否反応を示しているのである。
それなのに多くの親はよく調べることもせず、自分の子供は心の病気にかかったと決めつけて心療内科や精神科へと引っ張って行く。そして白衣を着た人間が処方するからという理由で精神薬をバンバン子供に飲ませる。
「薬を飲まなかったら食事は抜きね」とか「学校に行かない代わりに薬を飲みなさい」とか言って、無理にでも精神薬を子供に飲ませようとする。これがまた無知としか言いようがない行為なのである。
このような親は、多くの医者が薬を出していれば儲かるからという単純な理由で精神科を開業していることを知らない。あるいは、日本では薬の多剤大量処方が大きな問題になっていることを知らない。無知としか言いようがないではないか。
あぁ、何も悪くない若者たちは今日も「学校に行きたくない」という正当な理由のために苦しみを受けている。本当はそんな若者たちの方が正しいのに、親に馬鹿にされたり薬漬けにされたりして苦しい思いをしている。悲劇である。
誰も言う人がいないみたいなので代わりに私がハッキリ言っておく。今の学校は最高につまらない。学校でなされる授業はあまりにも無意味なので毎日通う価値など全くない。
ゆえに、学校教育に疑問を持ってニートになったり引きこもりになったりする若者は正しい。彼らの反応の方が正解なのであって、彼らを否定する人間たちの方が間違いなのである。
今の日本社会はまだまだ未熟で発展の途上にある。だから、その教育システムも本当に必要な知識の提供や魅力的な授業の提供にまで手が回っていない。当然、昔ながらの腐れかけたカリキュラムの使い回しや、つまらな過ぎて頭がハゲそうになる授業システムの使い回しが横行している。授業中に学生たちが眠ってしまうのは当然だ。
「新しい洋服を買いに行くのが面倒だから」と自分の子供にボロボロになったお下がりを着せている親のことをどう思うだろうか。今の学校も同じである。そこまで手が回らないから、あるいは他のことに忙しいからという理由で江戸時代製のボロボロの「学校教育」を子供たちに着せている。なんと江戸時代である。
このようなわけだから、現代を生きるあなたが「学校に行きたくない」とか「学校を辞めたい」と思ったとしても、あなたは間違ってはいない。むしろ、ボロボロになって悪臭を放っている「学校教育」を脱ぎ捨てようとしてるのだから、あなたの反応はごく自然である。
頭がおかしいのはボロボロになった古着を無理にでも着せようとする大人たちの方であって、それを脱ぎ捨てようとしているあなたではない。
さて、この記事ではこれから多くの若者たちを悩ませている「学校教育」という古着に焦点を絞って考えていこうと思う。学校教育の役割や本来のあり方について考えつつ、いかに現代社会ではそれが実現していないか、いかに多くの若者たちに迷惑がかかっているかを見ていこうと思う。この記事を読めば、今の学校教育が日本社会の足手まといでしかないことに気付くだろう。
記事の中ではさらに、そんな学校教育に対するニートや引きこもりたちの反応が実は正しいということについて、その理由と正当性についても深く考える。学校教育のルーツや欠陥について深く知れば知るほど、ニートや引きこもりたちの反応が実は正しいことが分かるだろう。
最後に、ニートや引きこもりたちが自分の将来のために具体的に何をすればいいかについても少し触れておこうと思う。ニートや引きこもりの示す反応が正しいとはいえ、今の社会は彼らに対しては冷たい。キャリアアップのために今の社会はこれといった支援を彼らのために用意してはない。
用意されたルートとは違う場所にいるニートや引きこもりたちは、一体どのようにしてキャリアアップができるだろうか、どのようにして社会の役に立つ人間になれるだろうか、その具体的な方法や大まかな道筋についても少し考察しておこうと思う。
ニートや引きこもりの状況から一転して、人々から尊敬され必要とされる状態へとその人間性や経済状況をキャリアアップできたとすれば、それこそ最善の道、文句のない人生だと言えよう。
社会に出る準備をするための学校教育
そもそも「学校」の役割は、若者たちが社会に出た後にうまくやっていくための準備をさせること、若者たちが社会に出た後に困らないように準備をさせることである。
学校とは例えるならば、ゲームを始める前の「チュートリアル」である。誰もがスマホゲームやパソコンゲームをプレイした経験はあると思う。そういったゲームをスタートすると、たいていの場合は最初の方で「チュートリアル」をプレイすることになるだろう。
チュートリアルとは、ゲーム操作の説明のことだ。ユーザーがその後のゲームを心地よくプレイできるように、操作でつまずいたり困ったりしないようにと準備をさせるセクションのことである。チュートリアルがあるおかげで、ユーザーはゲームの概要を理解することができるし、基本操作に慣れることもできる。
マップを確認したい時はこのボタンで、主人公のステータスを確認したい時はこのボタン。敵を攻撃する時はこのコマンドで、敵からの攻撃を回避する時はこのコマンドといった具合だ。
つまりチュートリアルでは、その後の本番のプレイでうまくやっていくための準備、基本的なことで苦労しないようにするための準備運動ができるわけである。
ここでもし、チュートリアルがゲームとはあまり関係がない説明、あるいは全く関係がない説明をするとしたら、あなたはそのチュートリアルのことをどう思うだろうか。
「キャラクターのステータスを確認したい場合はスタートボタンを押しましょう・・ちなみにキャラクターをデザインしたのは1980年生まれの高橋さん(株式会社クリエイティブ美術責任者)です。キャラクターの多くは高橋さんが家族と京都旅行をしている最中に思い浮かんだもので・・」といった具合にチュートリアルが進んだとしたら、あなたはどう思うだろうか。
あるいは、こんなチュートリアルをどう思うだろうか。「敵からの攻撃を回避する時は十字キーを倒したままAボタンを押しましょう・・ちなみに高橋さん(株式会社クリエイティブ美術責任者)の友達は実家でエリザベスという柴犬を飼っています。エリザベスは餌を食べるときに必ず・・」といった具合だ。
あなたは思うに違いない。「なんだこのチュートリアルは」と。そして、そのゲームをプレイする気など消え失せてしまうに違いない。
チュートリアルとは本来、ゲームと関係のある説明だけをすべきであるし、ユーザーのその後のプレイに必要となる情報だけを提供すべきである。ユーザーがつまずくかもしれない状況を先回りして情報提供してくれるチュートリアルであれば優秀だ。
学校も同じである。学校とは本来、若者たちが社会に出る準備をするためのチュートリアルである。その役割とは本来、若者たちが気持ち良く社会生活をプレイするめの下準備なのである。
社会生活に備える授業カリキュラムについて
社会生活を気持ち良くプレイしてもらうための情報提供が目的なのだから、学校のカリキュラムには本来、社会生活とはあまり関係がない情報、あるいは全く関係がない情報を入れるべきではない。
この観点から言えば、現代の学校のカリキュラムからは、例えば以下のような科目を排除あるいは削減できると思う。
- 数学:
平方根やサインコサインタンジェントなどは一般的な社会生活には必要ない。というか全く使わない。使いこなせるようになったところで学生たちの社会生活の質が高くなるわけでもない。加減乗除の方法さえ分かっていれば良い。数学者を目指す学生にだけ専攻させれば良い - 英語:
一般的な社会生活において英語を話す機会などほとんどない。ましてや過去完了形や現在完了進行形を熟知したところで社会生活が改善されるわけでもない。自己紹介や外国人に道を聞かれた時の英文法だけ完璧にしておけばそれで十分だろう。英語を利用予定の学生にだけ専攻させれば良い - 理科:
イオン結合によってイオン結晶が生成される。だからどうした。イオン結晶はあなたが社会生活で遭遇するであろう問題からあなたを救ってはくれない。理科の知識は中学レベルくらいで十分である。物理などは物理学者を目指す学生にだけ専攻させれば良い - 古典:
サ行変格活用の未然形や連用形などに至っては、それを必死で若者たちに教える教師は頭が狂ってしまったのではないかとさえ思える。古典を教えるなら英語の古典であるラテン語を教えた方がマシである。古文書を原文で読みたいという学生にだけ専攻させれば良い - 歴史:
中臣鎌足(なかとみのかまたり)は西暦646年に起きた大化の改新の中心人物である。どうでもいい。高橋さん(株式会社クリエイティブ美術責任者)の友達の実家の犬の名前がエリザベスであるのと同じくらいどうでもいい。歴史に興味がある学生にだけ専攻させれば良い
以上のように、現代の学校のカリキュラムには社会生活とはほとんど関係のない、あるいは全く関係のない情報が詰め込まれている。こういった教科をいくら学んでも若者たちは社会生活に備えることはできないし、社会生活で遭遇するであろう問題に対処できるようにもならない。
学校に通うほとんどの若者たちも「数学」や「英語」や「歴史」といった科目が社会生活とはほとんど無関係であること、自分の将来の社会生活にはほとんど役に立たないことに気付いている。学生だって鋭い知力と洞察力を持った立派な人間なのだ。彼らが気付かないわけがない。
そんな知力と洞察力にあふれる若者たちが、無能な学校教育にどうしても価値を感じられなくなって、そうやってニートになったり引きこもりになるとしても何の不思議もないだろう。
現代の学校教育に対して冷笑的で否定的な反応を示す若者たちが正しいのであって、そんな若者たちを「考えが甘い」とか「社会を分かってない」とか言ってバカにする大人たちが間違っているのである。考えが甘いのはこんなにも分りやすい学校教育の無能さを見抜けない大人たちの方ではないか。
では、そんな若者たちが本当は知りたいはずのこと、本当に必要としている情報とはどのような情報だろうか。本来、若者たちが学ぶべき教科、社会生活の「チュートリアル」である学校が教えるべき教科とは例えばどのような教科なのだろうか。
学校が社会生活のチュートリアルであることを踏まえれば、例えば次のような教科を学校のカリキュラムに入れることができると思う。
- 社会経済:
日本社会に存在している全ての職業や職種について学ぶ。その職業の現在の市場価値、その職業に就くための具体的な方法、その必須条件や資格についての情報を含む。日本経済の仕組みや全体的なお金の流れについてもこの教科で詳しく学ぶ。社会に出る若者たちのほとんどが就職することを考えると、この分野は数学などよりはるかに優先して学ばれるべきである - 対人関係:
社会生活において良好な対人関係を築くための方法について学ぶ。この教科では言語学や心理学を学びつつ、誰とでも仲良くやっていく方法や誤解を生まない話し方などを学んだりする。出会いもしない外国人と交流するための学問ではなく、毎日出会う家族や友人、同僚や上司などと心を通わせるための学問こそ優先して学ばれるべきである - 家庭保育:
イオンの性質に詳しくなるより、料理や子育てに詳しくなった方がはるかに社会生活の役に立つ。社会に出てイオン結晶を作ろうと思う若者はほとんどいないだろうが、家族を作ろうと思う若者はとても多い。理科ではなくこの教科が必修教科であれば、料理や子育てが苦手な親など存在しなくなり、日本社会は料理の達人と子育ての達人であふれるだろう - 日本の法律:
大化の改新からペリー来航までの出来事や年号を全部暗記するくらいなら、六法全書(日本の法律)を半分暗記した方がよほど社会生活の役に立つ。日本の法律とは日本社会のルールである。ルールに熟知している人がゲームを有利にプレイできるように、日本の法律を熟知している人は社会生活を有利にプレイできる。今の学校は社会のルールについてほとんど教えてくれない
さて、現代の授業カリキュラムで採用されている5教科と前述した4教科、どちらが社会に出た後に役立ちそうだろうか。どちらが社会に出る前の「チュートリアル」としてふさわしいだろうか。同じ12年間を学ぶとして、どちらにその12年間をかけたいだろうか。答えるまでもないだろう。
現代の学校教育の授業カリキュラムがあまりにも無能であることが分かって頂けたと思う。
イジメが発生しない授業システムについて
学校教育のカリキュラムだけでも十分すぎるほど無能であるのに、現代の学校教育はその授業システムにおいても無能なのだから、もはや手の施しようがないほどの無能である。
学校の授業システムが無能すぎて学生たちに迷惑がかかっていることは、わざわざ論じるまでもないだろう。もし仮に「学校の授業システムは素晴らしいではないか」なんて言う人間がいたら、私はそんな頭がおかしい人間とはあまり関わりたくないので大慌てでその場から立ち去るだろう。
つまり、今の学校にはイジメがある。イジメに悩んで自殺してしまう生徒だっている。これらは学校の授業システムがあきれるほどに無能であるがゆえに起こっている災害である。
少し考えれば誰だって分かると思う。イジメなど本来、学校では絶対に起こるはずのない現象、絶対に起きてはいけない現象ではないか。それなのに今の無能な学校はイジメの発生を許しているし、学校の教師たちや偉い人たちはイジメの発生を抑止できていない。
学校の教師たちはイジメを抑止したいという気持ちがあるにはあるのだろう。昨今ではイジメ問題がかなり大きな社会問題になってきている。だから教師たちをはじめ学校教育に関係している偉い人たちは色々な案を出したり、色々な工夫を実践してみたりしている。
例えば、彼らは次のような案や工夫を実践したりしてイジメをなくそうとしている。
- 廊下の張り紙:
廊下や教室の壁に「イジメ だめ 絶対」とか「イジメゼロで爽やかクラス」などとかわけの分からない張り紙を貼る。そもそも、なんで学校の教師たちや偉い人たちは何かを解決しようとするとすぐ「張り紙」に頼るのか。「廊下を走る人がいる?じゃ張り紙を」「掃除をサボる人がいる?じゃ張り紙を」といった具合に。これでは、心臓手術のときにバンドエイドを使おうとする医者である。実に頼りない。 - イジメ廃止宣言:
生徒たちに「イジメを見たら注意します」とか「見て見ぬふりをしません」とか宣言させる。紙に書いて教室に貼ったりもする。これは行動心理学で言うところの「宣言効果」や「レッテル効果」を狙っているものだが、イジメ廃止の責任を生徒たちに転嫁している時点で間違っている。イジメをなくすのは生徒たちの仕事ではなく教師たちの仕事である。自分たちの仕事を生徒たちに放り投げ、自分たちの責任を生徒たち押し付けるあたりはなんとも情けない。 - 「イジメ追放し隊」の結成:
イジメを注意する生徒たちのグループを作ってイジメが発生しづらい雰囲気を作る作戦だ。イジメが発生するような悪い集団心理には、イジメを抑止するような良い集団心理で対抗しようというのが教師たちの狙いである。残念ながら、この作戦が通用するのは小学生、もって中学生までである。ほとんど大人である高校生たちは「イジメ追放し隊」といったふざけたグループには入らない。
以上のように、学校の教師たちや偉い人たちはイジメを抑止したいという気持ちがあるにはあるようだが、イジメをなくすことに非常に苦労しているようだ。
言わせてもらうが、彼らの取る方法はあまりにも稚拙で頼りない。前述のようなその場しのぎの工夫やバンドエイドのような応急処置ではイジメ問題という非常に大きな社会問題には対抗できない。できるわけがない。
学校に通うほとんどの若者たちも「廊下の張り紙」や「イジメ廃止宣言」などがほとんど無意味であること、ほとんど機能していないことに気付いている。学生たちは教師よりもイジメに近い場所、イジメの現場で生活していることを忘れてはいけない。そんな彼らが教師たちの作った中途半端な張り紙を見て鼻で笑ったり、破いて捨てたりしても何の不思議もないだろう。
ニートや引きこもりたちは、学校や教師たちが無能であることに気付いた若者たちである。誰だってそんな人間とは一緒にいたくないし、そんな人間の世話にだってなりたくないはずだ。無能な人間と一緒にいればただそれだけで苦労するだろうし、そんな人間の世話になるとすれば、ただそれだけで自分の生活が台無しになるのは目に見えている。
ニートや引きこもりたちは、学校や教師たちの頼りなさに我慢できなくなった若者たちでもある。彼らはあえて有害な学校や教師たちを自分の生活から切り離し、自分の生活が台無しにならないように自分で自分の道を選択したのである。自立心の高い若者たち、心の強い若者たちではないか。
では、そんな若者たちが満足してくれるような授業システム、イジメや人間関係の摩擦に気を散らされることなく学業に集中できるような授業システムとは一体どのようなものだろう。
いろいろな調整が考えられると思うが、イジメの抑止に焦点を絞った場合の授業システムを考えるとすれば、例えば次のような調整が考えられると思う。
- 休み時間の廃止:
イジメの大半は休み時間に発生している。よって休み時間を廃止すればイジメの大半を抑止できる。生徒たちに頭を休めて欲しいのであれば、音楽や体育や家庭科といった授業をうまく挟めばそれで十分である。そもそも、今の学校の授業はとても退屈なので頭を休める時間などさほど必要ない。休み時間を挟むよりその分、生徒たちを早く家に帰した方が良い。 - 昼休みの廃止:
イジメが表面に浮き出てくるのは特に昼休みである。生徒たちは中途半端に自由になるので、その時間に仲良しグループを作ったり仲間はずれを作ったりする。昼休みを昼食を取ることだけに限定しグループも四人一組や五人一組に固定すれば良い。ローテーションしてもいいだろう。そうすれば誰かが余ったり生徒間の派閥ができたりすることを抑止できる。昼食を食べ終わったらさっさと次の授業に移行してしまい、休み時間がなくなった分は生徒たちを早く家に帰せば良い。
この2つの調整だけでイジメの大半は抑止できるだろう。今の学校は、授業中は狂ったように生徒たちを管理するくせに、休み時間になると突然生徒たちを放置する。これでは、あまりにも中途半端なシステムではないか。休み時間もしっかり管理できないのなら、そもそも休み時間など作るべきではなかった。体も心もまだ成長しきっていない子供たちを放置する時間など作ってはいけないと思う。
管理するなら授業中も休み時間もしっかり管理すべきだし、放置するくらいならいっそ休み時間を廃止すべきである。中途半端な対応が一番生徒たちに迷惑をかけるのだ。実際、多くの生徒たちに迷惑がかかっている。
忘れてはいけない。学校とは社会生活を始める前のチュートリアルなのだから、その授業カリキュラムにおいても社会生活に関する説明だけをすべきであるし、学生たちの社会生活の質が向上するような情報だけを提供すべきである。
授業システムにおいても同様である。学校とは本来、若者たちが社会に出る準備をするためのチュートリアルなのだから、その授業システムにおいても学生たちが気持ちよく学業に集中できるように環境を整えるべきだし、イジメの発生を許すことなど論外である。
しかし、現代の学校教育はその授業カリキュラムを考えても、その授業システムを考えてもその役割をほとんど果たしていない。社会に出るためのチュートリアルであるどころか若者たちの足を引っ張っている。社会生活の準備などできやしない。
さて、実はここで日本の学校教育のとんでもない欠陥が浮き出てくる。その欠陥があまりにもひどい欠陥なので多くの若者たちは驚くに違いない。あるいは、そんなの聞いてないぞと唖然とするかもしれない。
その欠陥とは、日本の学校とはそもそも社会生活の準備をさせる場所ではない、そもそもそんな目的など持ってない、ということである。
ほとんどの親や若者たちは学校教育に社会に出るためのチュートリアル、あるいは社会に出るための準備を期待しているだろう。しかし日本の学校教育とはそもそもそんなことなど眼中にないし、もともとそんなことは目指してない。実は、そんな目的のために作られてはいないのだ。
では、日本の学校教育は何を目指しているのか。「社会に出る準備」でないとすれば、日本の学校教育はどんな目的のために作られているのだろうか。次のセクションではこの点について考察を続ける。
江戸時代製のボロボロの学校教育、その理由と仕組み
結論から言えば、日本の学校教育の目的、それは若者たちに洋学つまり西洋諸国の学術を学んでもらうこと、ただそれだけである。それ以上でも以下でもない。
西洋諸国の学問を学んでもらうことが学校教育のそもそもの目的なのだから、本質的に学校教育は若者たちに社会生活の準備をさせることもしないし、就職しやすいようにと若者たちを訓練することもしない。
もし仮に、若者たちに社会生活の準備をさせる一面があるとすればそれは「たまたま」である。なぜなら、日本の学校教育はそもそも若者の社会生活の質の向上のためには設計されていないからだ。
ただ洋学を学んでもらえれば、あわよくば西洋諸国に留学してもらえれば、学校教育はただそれだけで満足なのである。これが学校教育の本質、学校教育の使命なのである。
この話を聞いて、ひょっとしたら学校の教師たちは机をバンバン叩きながら「そんなはずはないだろ馬鹿者が」と私のことをバカにするかもしれないし、教育関係の偉い人たちだって「学校教育は素晴らしいだろ馬鹿者が」と私に対して憤慨するかもしれない。
バカにされることは別に構わないけど、もし仮にそんな人がいるとすれば私は「あぁ、この人は学校教育の歴史について知らないんだな」とか「あぁ、この人は東京大学の歴史を知らないんだな」と思って、やはりそんな考えの甘い人間たちとはあまり関わりたくないので、できるだけ早くその場から立ち去るだろう。
学校教育の歴史に詳しい人であれば私の言わんとしていることを理解できるし、東京大学の歴史について詳しい人であれば私の言わんとしていることの筋を理解してもらえると思う。
そもそも、現代の学校教育を作ったのは明治政府である。明治政府とは江戸時代の次の時代、つまり明治時代において日本を導いた政府のことである。
江戸幕府の閉鎖的な方針とは対照的に、明治政府は私たちの日本を西洋諸国のように強い国、当時のイギリスやドイツのように優秀な国にしようと考えていた。だから、明治政府は発足してすぐに岩倉具視を中心とする岩倉使節団を組織して西洋諸国に派遣したし、お腹を空かせた子供のように貪欲に西洋の制度を吸収したり西洋の文明を取り入れたりした。
考えてもみて欲しい。当時のイギリスの海軍は負け知らずの世界最強を誇っていたし、当時のドイツの医学は世界において羨望の的であったのだから、できたばかりの明治政府だってイギリスやドイツといった西洋諸国に強く憧れ、そんな彼らを目指したのは当然だろう。
だから、明治政府の役人たちは我先にと「ちょんまげ」をやめて西洋人みたいにシルクハットや燕尾服を着るようになったし、ご飯や味噌汁もやめて西洋人みたいにパンや牛乳を飲むようになった。
街並みだってそうだ。煉瓦造りの西洋建築が普及したし、ガス灯が設置されたりして大通りまでもが西洋化された。軍隊で支給される食事までもが西洋化されたのだから、当時の明治政府の役人たちがいかに西洋化に取り憑かれていたかは容易に想像できるだろう。
これがいわゆる「文明開化」である。当時、明治政府を発足させたばかりの役人たちは、ハリウッド映画に出てくる最強ヒーローに憧れる小さな子供のように西洋諸国に強く憧れ、彼らの制度や文明を手当たり次第に真似し、文字通り「西洋諸国」になろうとしたのである。
そんな明治政府がとりわけ力を注いで作った制度、それが「教育制度」である。西洋化に取り憑かれていた明治政府が作ったのだから、彼らが自分たちの教育制度を作るときだって西洋化のことで頭が一杯であったのは当然だ。いかに西洋の知識を吸収するか、いかに西洋の技術を学ぶか、これが明治政府の作った教育制度の主な着眼点である。
経緯としては、明治4年に「文部省」を設置し、これが全国の学校の普及や教育内容を管理するものとした。明治5年には「学制」という法令を全国民に対して公布し、子供を学校に通わせることを親の果たすべき責任であるとした。「日本の子供や若者はすべて明治政府が教育しますよ」というわけである。
学校で使われる教科書に関しても、その主な目的は西洋の知識の吸収であった。実際、明治政府は西洋の教科書をそのまま翻訳してこれを全国に普及させる方針をとっている。明治政府は日本中の学校も西洋化させたかったのである。
さらに、国民の幅広い年齢層に西洋の知識を吸収させるために明治政府は学制の条文において学校の区分を決定し、若者たちの大まかな年齢に合わせて、小学、中学、大学の3学区に分けている。ちなみに現代の高等学校は当時の中学の学区から分離してできたものである。
小学、中学、大学の階段を上っていく方式はいわゆるエリート方式が採用された。これはつまり、小学教育を受けた生徒の中から選ばれた優秀な生徒だけが中学に進級し、中学教育を修了した学生の中から選ばれた優秀な学生だけが大学に入学する形である。
エリート方式によって小学、中学、大学の階段を駆け上ることが奨励されたのだから当然、多くの学生たちは中学に進級すること、そして大学に進級することを目指して一生懸命に勉強に励んだのは想像にたやすい。そして、そんなエリートの階段を上っていく過程で、その長期間にわたって教え込まれたのが西洋の知識なのである。明治政府の狙い通りである。
実際、学制が公布された明治5年から明治9年までのたった4年間の間に、明治政府は2万6千ほどの小学校を全国に設置している。
次いで明治10年。明治政府は日本初となる「大学」を設置することとなるのだが、この時に明治政府によって設置された大学がかの有名な「東京大学」なのである。
例に漏れず、東京大学の目的もただひとえに日本の学生たちを西洋化することであった。日本の学生たちに西洋の知識を教え、西洋の技術を吸収してもらうこと、主にこの目的のために明治政府は東京大学を設置している。
このことは、東京大学がもともとあった2つの学校をただ単に合併させて作ったに過ぎないことを考えても明白であろう。ちなみに、その2つの学校とは「東京開成学校」と「東京医学校」である。
東京開成学校
東京開成学校とはもともと文久3年(1863年)に江戸幕府によって設置された洋学の研究機関である。江戸時代末期には日本も開国を余儀なくされていたので、英語やドイツ語やフランス語で書かれている学問、つまり洋学を研究するために江戸幕府も止むを得ず洋学の研究機関を設置していた。
江戸幕府の崩壊により、そんな洋学研究機関も閉鎖されることとなったが、西洋に羨望の眼差しを向ける明治政府の役人たちがこれを放っておくはずはない。案の定、明治政府が権力を握った直後の明治元年(1868年)9月に、この機関は明治政府によって再興されている。
東京開成学校とは洋学の研究機関であったので、その教育内容も学生たちに洋学を徹底的に叩き込むものであった。基本的に授業はすべて外国人教師によって外国語で行われていたし、西洋諸国への留学も積極的にサポートされていた。実際、日本初の西洋留学生はこの学校からの派遣である。
さらに言えば、外国人教師によって外国語で行われる授業を「正則(正式な授業)」、日本人教師によって日本語で行われる授業を「変則(正式ではない授業)」と呼んでいた辺りは、この学校がいかに洋学びいきの学校であったかが伺い知れるだろう。
このようなわけだから、この学校の「普通科」では外国語教育に重点が置かれつつ、西洋地理・西洋歴史・西洋数学といった西洋の一般的な知識が教授されることとなった。そして、この「普通科」を修了した生徒たちだけが文科・理科・法科それぞれを学ぶ「専門科」に進学することになっていたのである。
文科・理科・法科。聞き覚えのある響きではないだろうか。その通りである。東京大学の学部名そのままである。東京大学は、その合併の際に東京開成学校で利用されていた学科名をそのまま学部名として利用したのである。
以上が、東京大学の片方の前身、東京開成学校についてのおおまかな説明だ。東京開成学校が、つまり東京大学がいかに洋学教育に焦点を当てたもの、西洋諸国の学問の吸収と取り込みに焦点を当てたものであったかが理解できたと思う。
東京医学校
東京大学のもう片方の前身、東京医学校はもともと文久1年(1861年)1月に江戸幕府によって設立された幕府直轄の西洋医学のための学校である。明治政府の役人たちに先駆けて、江戸時代後期の医者たちは西洋から流入してくる医学の吸収に貪欲であった。
西洋の医学で解説されていた人体解剖の知識は彼らを驚嘆させるものであったし、麻酔や特殊器具を使った外科手術に至っては彼らにとってはもはや魔法であったに違いない。そんな江戸時代後期の医者たちが西洋の医学を学ぶために西洋の医学書を翻訳したり、学校を開設したりしたのは当然のことだろう。
江戸幕府の崩壊により、そんな西洋医学の学校も閉鎖されることとなったが、西洋のものなら何でも歓迎する当時の明治政府の役人たちがこれを放っておくはずはない。やはり明治政府が権力を握った直後の明治元年(1868年)5月に、この学校は明治政府によって接収されている。
東京医学校とは西洋医学の学校であったのだから、その教育内容も学生たちに西洋医学を徹底的に叩き込むものであった。明治2年から開始された最初の授業も、イギリス公使館付医師ウィリアム・ウィリスが教鞭をとって行われたイギリス医学を中心としたものであったし、ウィリスの後に学校を管理運営したドイツの軍医レオポルト・ミュルレルとテオドール・ホフマンもドイツ医学を中心に学校の教育体制を整備している。
このような経緯があったので、東京医学校はドイツの医科大学をモデルとして組織されてることとなり、その教育過程も主にドイツ語を使った医学教育が行われることとなった。現代の医療現場において「カルテ」「ウイルス」「アレルギー」「カプセル」「ギプス」といったドイツ語が普通に見られるのも、そもそも東京大学がその源流においてドイツ医学を医学教育の中心として採用したからである。
東京開成学校の、外国語・地理・歴史・数学・文科・理科・法科に、東京医学校の医科を合併させたもの、これがつまり東京大学である。このように東京大学とはその発足から西洋学問の教育に焦点を絞った大学、学生たちを西洋化させるための大学であったのだ。
ちなみに、東京大学の次に明治政府によって設置された大学は「京都大学」である。東京大学の設置から20年後の明治30年(1897年)に京都大学は発足している。
京都大学の目的も御多分に洩れず学生たちの西洋化であった。京都大学のそもそもの起源が洋学を学ぶ洋学校であったことや、その整備にあたってドイツ式を採用していたあたりは東京大学と全く同じである。教育内容も理科・法科・医科そして文科が採用されたあたりも東京大学と同じだ。つまり、京都大学は東京大学の「複製」として設置されたわけである。
京都大学の次に設置されたのは「東北大学」である。東北大学は明治40年(1907年)に仙台市に設置されている。東北大学も、東京大学の複製を目指して編成された大学であった。現に、医科の開設の際には東京大学と京都大学の卒業生たちを講師として招いている。
東北大学の後、九州大学(1911年)、北海道大学(1918年)、大阪大学(1931年)、名古屋大学(1939年)と、政府は次々と日本全国に「帝国大学」を編成していった。その名称に「帝国大学」と名が付いていたものはすべて政府が編成した大学、学生の西洋化を目指した大学、つまり東京大学の複製であった。
そもそも、東京大学以外の6つの帝国大学は明治19年(1886年)に公布された「帝国大学令」に沿ってその運営体制や教育学科を決定されている。
実はこの「帝国大学令」とはもともと東京大学を設置するための法律であった。東京大学を設置するための法律を使って他のすべての帝国大学は設置されている。つまり、帝国大学とはすべて東京大学の複製なのである。
帝国大学以外の私立大学、例えば早稲田や慶応といった「大学令」で定められたところの大学も例外ではない。明治政府が発足する前から存在していた学校であっても「大学」に昇格するためには政府の許可が必要であったし、この体制は昭和25年(1950年)まで続いている。
この「大学令」が目指したところも結局は学生たちの西洋化であったし、初めから学部を、理学・文学・法学・医学・工学などに限定していた時点で、私立大学の目的もやはり東京大学の複製であったと言えるだろう。
現代においては盛んにその優劣が競われているようだが、日本の大学とはそもそもの起源においては結局のところ全て同じであり、多少の差異はあるにせよそれらは全ては東京大学の複製なのである。日本全国の大学の運営体制や教授学科が、だいたいどこも一緒であることを見てみても反論の余地はないと思う。
そんな「東京大学」群に進学するための階段に過ぎないのだから、日本全国の小学校、中学校、高等学校もやはり、その目的は学生たちに西洋の知識を授けること、西洋の技術を学んでもらうことであった。
算術・地理・歴史・物理といった小学校における初期の教育学科を眺めてみても、我が国の学校教育はその初めから「東京大学」群への進学が強く意識され、強く目標にされていたことが見て取れる。
つまり、日本の学校教育は東京大学をその頂点として小学校も、中学校も、高等学校も、明治政府の掲げた「西洋化」に向かって力強く突き進んでいたのだ。
その目的はそもそも、学生たちに社会に出る準備をさせることではなかったし、就職をさせるための訓練を授けることでもなかった。その目的はただ、できるだけ早く西洋の知識を吸収すること、できるだけ早く西洋諸国の仲間入りをすること、これだけであったのだ。
ここまでとことん「西洋化」にこだわり、ここまでとことん「西洋化」に焦点を絞ったからこそ、明治政府が作り上げた「大日本帝国」は驚異的な成長を遂げたのである。
その成長の早さがあまりにも驚異的であったので西洋諸国のどの国もが大日本帝国を驚嘆の眼差しで見つめたし、西洋諸国のどの国もが大日本帝国に敬意の眼差しを向けるまでになった。
考えてもみて欲しい。つい先日まで西洋諸国から見下され蛮国扱いされていた極東に浮かぶ小国が、たった37年かそこらで世界の超大国ロシアに戦争で勝利するまでの成長を遂げたのである。明治38年(1905年)9月の日露戦争での勝利は前代未聞の出来事、前例のない快挙であった。
日露戦争での華々しい勝利を境に、大日本帝国は西洋諸国から一等国と認知されるようになったし、植民地支配の権利も認められるようになったのだ。明治天皇の崩御の際には西洋諸国の新聞の第一面を飾るほどである。
明治政府はその発足から目標としていた西洋諸国の仲間入り、つまり列強入りを果たしたのである。生徒は教師に追いつき、教師を追い越した。
西洋のものなら何でも、服装でも軍隊の食事でも、何から何までも真似したかいはあったのだ。ちなみに現代においても明治政府が成し遂げた快挙は「明治の奇跡」として世界的にも広い認知、そして大きな賞賛を受けている。
しかし時は流れ、時代は変わる。やはり時は流れ、時代は変わった。日露戦争での華々しい勝利はもはや古びれた歴史、西洋諸国からの拍手喝采はもはや遠い昔の記憶でしかない。
かつての教師たちであった西洋諸国の姿も変わり果て、今や我が国が「教師」として世界各国の模範となるべき立場となっている。何もかもが変わってしまったのだ。
問題は、何もかもが変わってしまったにもかかわらず、日本の学校教育はその本質において何もかも変わらなかったことである。東京大学を頂点とする西洋化に焦点を合わせた教育体制も変わらなかったし、学科の編成や教授される教育内容もさほど変わらなかった。
日本の学校教育は今も、優秀な学生たちを西洋化するという幕末維新時代に作られた目標に沿ってギコギコと古い音を立てて動いている。日本の学校教育は今も江戸時代に作られた古い枠組みを使って、現代に生きる若者たちを教育しているのである。これは実に驚くべきことである。
注釈:
厳密に言えば、変わることのできた大きなチャンスが最低2回はあった。大正6年(1917年)の「臨時教育会議」における1回と、昭和20年(1945年)の「新日本建設の教育方針」における1回である。
「臨時教育会議」に関して言えば、これは第一次世界大戦の終戦を受けての会議であった。第一次世界大戦後には反省の意味も込め、西洋諸国においても自国の教育体制が見直され改善が検討されることとなった。しかしながら、我が国においては見直しや改善ではなく、明治初年から国家発展を支えてきた教育体制の拡大と充実に焦点が当てられることとなったのだ。このようにして明治初年から登板した「西洋化教育」は大正6年(1917年)の「臨時教育会議」において、その続投を任されたのである。
「新日本建設の教育方針」に関して言えば、これは太平洋戦争の敗戦を受け連合国最高司令部(GHQ)の指導のもとでの教育改革であった。敗戦後の教育改革は占領政策の一環であったので、その実施をしたのは我が国の文部省であったが、その指揮をとったのは連合国最高司令部(GHQ)とその部局の民間情報教育局(CIE)である。この改革の主な着眼点は教育内容ではなく教育体制であった。六・三・三・四制や教育委員会やPTA(父母教師会)の導入、図書館や博物館や公民館の充実、学校給食の普及などが主な改革内容である。教育内容に対する干渉は、戦時中に利用された教科書の回収と修正、社会科・家庭科・保健体育科の設置くらいだろう。つまり、敗戦後の昭和20年(1945年)においても一新したのはユニフォームのデザインと諸設備だけであって、明治政府が作った江戸時代製の「西洋化教育」はまたしても続投を任されたのである。
そして現代に入っても、江戸時代製の「西洋化教育」はその古すぎるピッチングを続けている。
ニートや引きこもりは自分の将来のために何ができるのか
以上のようなわけであるから、今の学校教育はあまりにも時代遅れで、あまりにも無能で、その授業は最高につまらなくて、毎日通う価値など全くないのである。なくなってしまったのである。
だから多くの若者たちが時代遅れの学校教育に対して、冷笑的で否定的な反応を示すとしても何ら不思議ではないし、無能な学校教育を前にして「学校に行きたくない」とか「学校を辞めたい」と反発したりするのも不思議ではない。むしろニートや引きこもりになるのは自然な反応だと思う。実際、そうやって多くの若者たちがニートや引きこもりになることを選択している。
「学校に行きたくない」と反発する若者たち、あるいはニートや引きこもりたちのことを「元気のない若者たち」とか「深刻な社会問題」とか否定的に捉える人間もいるようだが私はそのようには捉えない。
「学校に行きたくない」と反発する若者たち、あるいはニートや引きこもりたちの存在は、日本社会が抱える問題の中でも実は潜在的には良い傾向、どちらかというと望ましい風潮である。なぜなら彼らの増加は日本の学校教育に江戸時代からの脱却、あるいはその終焉を迫るからである。
今の学校教育が江戸時代から脱却、あるいはその終焉を迎えなければ次の「大日本帝国」はやってこないし、次の「明治の奇跡」はやってこないだろう。今の学校教育が変わらなければ学校教育はいつまでたっても若者たちを西洋化の亡霊に向かって教育し続ける。
これらの点を踏まえれば「学校に行きたくない」と反発する若者たち、あるいはニートや引きこもりたちは実は日本を正しい方向に導く希望の光だとも言えなくはない。誇張のように聞こえるが、誇張ではないのが悲しい現実なのである。
とはいえ、そんな若者たちに対する社会の風当たりは冷たい。学校に行けなくなったニートや引きこもりのことを見下す人は多いし、キャリアアップのために今の社会はこれといった支援を用意してはいない。無能な大人たちは物事の本質を全く分かっていない。
この記事の最後の部分では、そんな若者たちにエールを送る意味も込めて、どのようにして現状からのキャリアアップを図れるか、どのようにしてニートや引きこもりという状況を上手に活用して将来を設計できるかについて少しばかり論じようと思う。
「天才」あるいは「一流」という選択
ニートや引きこもりの状態からキャリアアップを図るための大まかな道筋として私がそんな若者たちに提案したいのは「天才」と呼ばれる状態、あるいは「一流」と呼ばれる状態を目指してもらうことである。そのようにして現状から脱却し、まずは人生設計において有利な状況を作り出してもらうことである。
突然なにを言い出すのだと思った方もいるだろうが、ニートや引きこもりの若者たちが現状からのキャリアアップを図る上でまずは「天才」あるいは「一流」と呼ばれる状態を目指すことは非常に現実的かつ妥当な選択だと言える。
どの分野において天才を目指すのか、どのスキルにおいて一流を目指すのかに関しては、しっかりとした計画に基づいてしっかりとした選択をする必要があるとは思う。しかしながら、どの分野を選ぶにしても「天才」あるいは「一流」と呼ばれる状態になっておくことは、あなたの今後の人生において大いに助けになるだろう。
いわゆる「天才」と呼ばれる人間とは生まれながらに特別な才能を持っている人間、あるいは天から選ばれた特別な人間なんだと思われがちだが、それは違う。
「天才」あるいは「一流」と呼ばれる人間は、ただその修練におよそ1万時間を費やした人間、ただそれだけの人間なのであって、特別な才能を持っているわけでも天から選ばれたわけでもない。つまり、すべての人間は天才に生まれるのではなく、およそ1万時間の修練のあとに天才に育つのである。このことに例外はない。
世間が「天才」あるいは「一流」と呼ばれる状態に対して、ひどく間違った誤解を持ってしまっているのには、まず第一にメディアが提供している天才像が誤っていること、第二にメディアが紹介している天才の本質が隠されがちであること、この2点が大きく影響していると思う。
アニメや漫画なんかの描写においては物語をその初回から刺激的で面白くするため、さらに平凡でつまらない内容をできるだけカットするために主人公は生まれた時から素晴らしい天才、その初めから特別な能力を持つ設定になっていることが多い。しかしながら、これはあくまで製作者側の勝手な都合である。
現実世界とは一切関係のないアニメや漫画を幼い頃から視聴していると、なんとなく「俺も突然、何か特別な能力に目覚めないかな」とか「あぁ、天才って生れた時から特別なんだな。私は違うな」とかその描写を現実世界にも投影しがちであるが、アニメや漫画とはあくまで製作者の頭の中の「空想の世界」に過ぎないのであり、それは現実世界とは全く別物であることを忘れてはいけない。
たまにメディアに登場して、世間を賑わしたりする天才少年とか天才少女なんかがいるが彼らも例外ではない。
彼らがメディアに登場して、例えばその小さな手でギターの超絶技巧を軽々と披露したり、小さな体で軽々と大人たちを打ち負かしたりする。そんな彼らの驚くべき姿を見ると、「ほら見ろ。やっぱり天才は生まれながらに天才ではないか」と考える人間がいるが、その人間は考えが甘い。
天才少年や天才少女の背後には必ず長時間の修練を支援した親や保護者の存在がある。具体的な数字をあげれば、その練習時間はおよそ1万時間である。毎日5時間を5年でおよそ1万時間になるが、これだけ多くの時間を注ぎ込むためには非常に恵まれた環境、非常に恵まれた支援体制が必要であることは想像にたやすい。
天才少年や天才少女とは、そのような非常に恵まれた環境、その練習に1万時間を費やすことを許され、むしろ支援される環境で生まれ育った子供たちなのだ。理解のある親という「宝くじ」に大当たりしたとも言えるだろう。ちなみに天才少年や天才少女の親は、その計画性という点において2パターンに分かれる。
1つ目のパターンは、よく分からないけど自分の子供が天才に育ったというパターンだ。親たちには計画性など一切なく、成り行きで子供が「天才」に育つ幸運なパターンである。このパターンの親たちの口癖は「この子は幼い時からピアノが大好きで大好きで」とか「この子からギターを取り上げるとすぐ大泣したもので」といった感じだ。このパターンの親はだいたいが普通の人間、一般人である。
2つ目のパターンは、自分の子供を天才に育てたというパターンだ。親は自分たちの子供が「天才」に育つことを計画し、そのように教育している。このパターンの親たちの口癖は「私はこの子を幼い時からピアノの前に座らせて」とか「この子がギターを放り投げても私は粘り強くギターの魅力を教え続けて」といった感じだ。このパターンの親はだいたいが自分もその分野のプロ、早期教育の大切さに気づいているその業界の人間である場合が多い。
前述2つのパターンには計画性の有無という大きな違いがあるが、実はどちらの親にも共通して見られる性質、決定的な共通点がある。それは親がその子の練習を邪魔しないこと、練習に集中できる環境をしっかり整えてあげること、そのようにして1万時間を練習に当てられるように積極的に支援していることである。
以上が「天才」あるいは「一流」と呼ばれる状態の本質的な説明である。人は1万時間を注ぎ込んで初めて天才に育つのであり、1万時間の修練ののちに人は初めて一流になることが分かって頂けたと思う。このことは多くの知識人や科学者の認めていること、意外と昔から言われていることである。ただ、アニメや漫画が提供する「虚像」の海に埋もれてしまって目立たないだけだろう。
あなたがニートや引きこもりであればこのノウハウが役に立つと思う。あなたは「天才」あるいは「一流」と呼ばれる状態になることを選択できる。そのようにして現状から脱却し、まずは人生設計において有利な状況を作り出すことができるだろう。
自分のキャリアアップを図る際に目安となる時間、それはズバリ1万時間である。毎日5時間をその修練に当てればおよそ5年であなたは「天才」と呼ばれる状態に到達するだろうし、毎日10時間であれば、それはおよそ2年半に短縮される。
ニートや引きこもりたちが割と自由な時間に恵まれていることを考えれば、その状況は一般人と比較して有利ですらあると思う。ただし、1万時間という膨大な時間を注ぎ込むことになるわけだから、どの分野にその1万時間を注ぎ込むか、どのスキルに注ぎ込むかは適切に選択する必要がある。
むしろ問題は、長期間に渡ってしっかりと自己管理ができるかどうかだと思う。5時間を毎日欠かさず5年で1万時間、あるいは10時間を毎日欠かさず2年半でようやく1万時間に到達するのだから、「天才」あるいは「一流」と呼ばれる状態に到達するためには自分をしっかり管理すること、淡々と毎日の練習時間を消化していくことが絶対条件になることは言うまでもない。
この社会はあなたの行動と前進を邪魔するノイズやトラップであふれている。今はエンタメ情報もあふれている時代だから「なんか面白い、だけどくだらない」ものが次から次へとあなたの目に押し寄せてくる。
荒れ狂うエンターテイメントの荒波の中を自分の目標に向かって一直線に進んでいくことこそ「天才」を目指す上での一番難しい問題になるだろうし、親や保護者に頼らず自分自身で自分を管理しないといけないのだから、万全な対策なしでは絶対に1万時間になど到達できないと思う。
この点に関する詳しい話、この問題に対処するための具体的な対策に関してはセクション「自分をコントロールする方法(未定)」で詳しく論じる予定だ。もしあなたが「天才」あるいは「一流」と呼ばれる状態を選択しようと考えているのなら参考にして欲しい。
まとめ
本記事では、日本社会が抱える深刻な問題、特に学校教育があまりにも時代遅れであること、実はそれは江戸時代製であることを日本の教育制度や東京大学の詳細な歴史的背景とともに解説した。
そんな時代遅れの学校教育を強いられているのだから、たとえ「学校に行きたくない」と感じても、そうやってニートや引きこもりになったとしても、それはどちらかというと自然なことであり間違いではないということも確認できたと思う。
学校へ行けなくて落ち込んでいる若者たちに対して、ニートや引きこもりになって「どうしよう」と不安になっている若者たちに対して「あなたは本当は正しい」ということ、「だから自信を持って前進して欲しい」ということがしっかり伝わっていれば嬉しい。
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