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自分が嫌いな人【必読】人生は想像以上に運や偶然に左右されている

本当は未熟な社会の方が問題なのに、問題の原因の全てが「自分」にあると考えて凹んでしまう人はとても多い。もちろん原因の全てを背負い込んでしまう人は少ないと思うが、たいていの人は9対1くらいの割合で「自分に責任がある」と考えるだろう。9対1といえば「ほぼ全て」である。

例えば、就職活動をしている若者がなかなか採用してもらえずにひどく落ち込んだり、自分に自信をなくしてしまったりすることはよくある話だろう。10社あるいは30社から「不採用」の通知をもらうと、さすがに自分の価値が否定されているように感じて、多くの若者は深く傷ついてしまったり就職活動それ自体に疲れ果ててしまったりする。

親や親戚、自分の友達など周りの人間たちからも「悪いのは君の努力不足じゃないかな」とか「君がちゃんとしていれば面接官は見抜くはず」とか言われるのだからたまらない。あなたの努力の3%も見えていないくせに、彼らは100%知っているかのように偉そうに話しをする。

しかも、そんな人々の嘘を受け入れてしまう若者たちが多いのである。そして「私の努力不足なんだ」とか「やっぱり私の人間性が悪いんだ」と考えて、そんな人々の嘘に飲み込まれ、そして溺れてしまうのである。

しかし、少しばかり考えて欲しい。不採用の原因のほぼ全ては本当に自分にあったのだろうか。実はもっと別の場所に、例えば何らかの会社側の都合や、面接官側の能力不足にだってその原因があったのではないだろうか。そもそも不採用になったのは「たまたま」かもしれない。

一般的に見ても、「自分にほぼ全ての責任がある」という考え方は多くの人に受け入れられているようである。だから多くの人は勇敢にも、あらゆる出来事の原因はほぼ全て自分にあると考える傾向にあるし、人生の大半を通してもそのような勇敢な考え方で世界を見ることになる。「それが悪い」と言っているわけではない。「それが過ぎるのはどうかと思いますよ」と言っているのである。

社会全体の風潮も「自分にほぼ全ての責任がある」という考え方に拍車をかけている。例えば、エンタメ業界を見て欲しい。「やればできる」とか「人生は自分次第」とかいう綺麗に磨き上げられたキャッチフレーズが映画やテレビ、あるいは雑誌なんかの上で華々しく踊っているではないか。「やればできる:9月9日全国ロードショー」とか「人生は自分次第:100万部突破」とか。

親だって学校の先生だって、親戚のおじさんだってみんな同じようなことを言うだろう。「他人のせいにしちゃいけないよ。人生は自分で切り開いていくんだ」とか「いいか。人生は真っ白なキャンバスだ。そのキャンバスに何を描くかは君次第なんだよ」と。彼らはみんな「人生」というものがあたかも、あなたの手のひらの上に転がっている石ころであるかのように話す。「それを掴め」と。

ビジネス雑誌なんかを見てもそうである。物事の原因を当事者に直結させることが遊園地のパレードみたいに大々的に、そして華やかに行われている。「山田商事を一代で築き上げた山田社長に直撃インタビュー」とかいう見出しの記事では決まって次のような文章が続く。

「貧しかった学生時代にも関わらず、夢を決して諦めなかった山田社長は人一倍の努力を続け、ついに山田商事の一大帝国を築き上げることに成功した」。そしてこの文章を読む多くのビジネスマンが感激しながら言うのだ。「なるほど。山田社長が起業を成功させたのはまず第一に夢を諦めなかったこと、そして人一倍の努力を続けたことなのか」と。実は、山田さんの親戚に「たまたま」資産家の叔母がいて1億円の出資をしてくれていたとしても、そんなことには誰も気付かないのである。

さて、この世界は私たちが考えている以上に運や偶然に支配されている。しかし、このことが注目されることは少ない。誰かが大成功したらその大きな原因は「その人の懸命な努力」ということになりがちだし、誰かが何らかの失敗を犯してしまったらその大きな原因はやはり「その人の努力不足」ということになりがちである。

受験の例を挙げれば、受験に合格した若者は「勉強を頑張った若者」であり、受験に失敗した若者は「勉強を頑張らなかった若者」なのだと画一的に結論づけられる傾向が強い。受験に合格した本人も、その本人を取り囲んでいる社会の人間たちも基本的にはそのように考えるだろう。

しかしながら少し考えてみて欲しい。本当はもっと世界が複雑だとしたらどうだろうか。例えば、受験に合格した若者は「たまたま勉強を頑張ることができる家庭環境に生まれた若者」であり、受験に失敗した若者は「たまたま勉強を頑張ることが難しい家庭環境に生まれた若者」であるとしたら、その場合の世界のとらえ方はどうなるのだろうか。

就職に関しても同じことが言える。大手企業に就職した若者は「優秀な人材」であり、なかなか就職できなかったり、バイトやパートに甘んじている若者は「優秀ではない人材」なのだと短絡的に結論づけられる傾向が強い。就職に成功した本人も、その本人を取り囲んでいる社会の人間たちも基本的にはそのように考えるだろう。

しかしながら、その考え方は本当に正しいのだろうか。その考え方はあまりにも世界を単純化し過ぎてはいないだろうか。例えば、大手企業に就職した若者は「たまたま社交性や学力を伸ばせる環境で育った人間」であり、バイトやパートに甘んじている若者は「たまたま努力することが難しい状況にあった人間」あるいは「正しい訓練を施せば大きな伸びしろが期待できる人間」であるとしたら、その場合の世界観はどうなるのだろうか。そもそも、企業側が利用する採用基準が狂っているのかもしれない。

あなたの人生が思い通りにいかない場合だってそうだろう。例えば仕事で失敗した場合、恋愛がうまくいかなかった場合、日常生活にどことなく不満がある場合などを考えて欲しい。そんな場合にはなんとなく「あぁ自分が悪いんだろうな」とか「しっかりしないとな自分」などと、自分を責めると思う。

周りの人間たちだって「それはあなたの責任だ」と言うだろう。例えば、あなたが仕事で失敗をしてしまったとすれば、その原因はほぼ全て「あなたが悪い」ということになりがちである。あなたは上司から「何でああしなかったんだ」とか「普通だったらこうするだろ」とか怒鳴られることになる。「あれは運が悪かったね」とか「今回の失敗はたまたまだ。気持ちを切り替えて次に行こう」などと声がかけられることは少ない。

あるいは、なかなか結婚できない女性であれば、その原因だって「あなたが悪い」ということになりがちである。婚期を過ぎて、それでいて結婚できないでいると親や親戚たちから「いい女性はどんどん売れていくよ」とか「ぼーっとしてると婚期を逃すよ」などと迫られることがあるだろう。「日本の人口比がもっと女性に有利だったらね」とか「外見にこだわらない男性がたくさんいればね」などと配慮の言葉がかけられることは少ない。

極め付けは、あなたがニートや引きこもりになってしまう場合だろう。そんな場合、その原因はほぼ全て「あなたが悪い」ということになりがちである。親や親戚たちからは「もっとちゃんとしなさい」とか「早くハローワークに行きなさい」などと怒鳴られる。「仕事の需要供給のバランスが悪いからね」とか「国の就職支援がまだまだ整ってないからね」などと声がかけられることは滅多にないのである。

以上のように、現代社会においては1つの結果に対して1つの原因があまりにも短絡的に結びつけられる傾向が強い。本当はあなただけが悪いわけじゃないのに、問題はもっと複雑で多面的であるのに、そのことが注目されることは少ない。「全てあなたが悪い」ということになりがちである。

大体にして多くの人、特に考え方が甘い人間は1つの結果に対して1つの原因という図式で物事を考え過ぎるきらいがある。世界は本当はそんなに単純ではないのに、あたかも「答えが1つ見つかればそれが全ての答えだ」とでも言わんばかりに、1つの答え、1つの原因に重みをつけ過ぎる傾向が強い。

例えるなら、「1本のストロー」を使って世界を見る人間が多すぎるのである。その視野はあまりにも狭く着目している面はあまりにも少ない。だから物事の裏側で複雑に絡み合っているあらゆる原因にまでその考えが至らない。1本のストローを使って世界を考える人間の思考はとても浅いもの、低次元なものになりやすい。1つの物事に対して、自分の目に映る1つの印象を全ての事実として鵜呑みにする。

一方で、「複数のレントゲン」を使って世界を見る人間は賢い人間、比較的バランスのとれた思考ができる人間である。その視野は広く着目している面は多い。だから物事の裏側で複雑に絡み合っているあらゆる原因を検討することに努める。原因が1個見つかったからといって絶対に満足しない。彼らは原因を10個は見つけようとするだろう。複数のレントゲンを使って世界を考える人間の思考はとても深いもの、高次元なものになりやすい。1つの物事に対して、あらゆる角度から考えうる全ての可能性を検討する。

ストローを使いながら生活している人は大勢いるが、レントゲンを使いながら生活している人は少ない思う。あなたが出会う人々も、そのほとんどはストローで世界を観察している人間だと思う。家族や友達があなたのことを見下してきたり、馬鹿にしてきたりする場合なら間違いない。彼らは間違いなくストローを使ってあなたを見ている人間、短絡的で考えが浅い人間である。

そもそも、今の日本社会が未熟なのだから、そのような未熟な思考パターンを持つ人間たちがあふれているのは仕方のないこと、むしろ自然なことだと言える。考えてもみて欲しい。すべての社会人がお世話になった学校教育でさえも「相手のことを多面的に考えるように」とか「物事の裏側で絡み合っている原因のすべてを検討するように」という教育を与えることはしない。教師たちは口では言うかもしれない。しかし彼らの教育内容はそうではない。

1つの問題に対して1つの答え、あるいは、1つの設問に対して1つの解答欄がその主な教育内容だ。生徒たちは1つの答えに対して1つの正しい答えを提示するだけで褒められる。1つの設問に対して1つの正しい答えを記入すれば「○」がもらえる。このような条件付けを12年間も受けるのである。

パブロフの犬だって、ほんの数日間の訓練を受けただけでベルの音とエサとを結びつけたではないか。ましてや12年という長期間にわたって、1つの問題に対して1つの答えを提示し「○」をもらうという条件付けを受けてきたのであれば、短絡的な思考が頭にこびりついてしまうとしても、それは当然なことだと言えるだろう。

だから学校教育から自分の思考パターンを発展できていない原始的な人間は、1つの物事に対して1つの原因が見つかればそれで満足するし、1つの事象に対して1つの理由が見つかればそれで考えるのを止めてしまう。

だからあなたの周りの大半の人間は「受験に合格した。彼は頭が良くて優秀だったんだ。終わり」あるいは「仕事で失敗した。彼女は能力不足だったんだ。終わり」と短絡的に考えるわけである。「木を見て森を見ず」的な人間があまりにも多すぎる。あなたのことをバカにする親や友達は全てこの類である。

ちなみに、本当の自分が分からなくなってしまったり、自分が嫌いになってしまう原因も実は、世界を多面的に見ていないこと、物事を短絡的に考え過ぎていることと関係が深い。「本当の自分が分からない」とか「自分が嫌いだ」と悩んでる人は、物事の原因の比重を自分に置きすぎていたり、周りの人間たちがつく嘘を鵜呑みにしている傾向が強い。ようは、世界を単純化しすぎなのである。

しかしながら物事はもっと複雑であることを忘れてはいけない。世界はもっと複雑に絡み合っているもの、本来それはミルフィーユのように多面的なものであることを忘れてはいけない。

だから、何らかの原因をあなた一人で抱え込むのは現実的ではないし、何らかの責任をほぼ全て自分の責任だと感じてしまうのも正しい考え方ではない。ひょっとしたら、あなたは一切悪くないかもしれない。あなたはただ騙されているだけかもしれないし、自分よりも大きな「社会の激流」に影響されているだけかもしれない。

今回の記事では主に、この「社会の激流」について考察する。この社会の激流が具体的に何であるか、その激流が私たちにどのような影響を与えているかについて詳しく論じる。社会の全体的な流れにおけるあなたの現在地、つまり、より多元的な考え方におけるあなたの成り立ちについても詳しく考えようと思う。

この記事を読めば、本当の自分が分からなくなる原因、自分が嫌いになってしまう原因が社会の激流に翻弄されているから、そのせいで現在地や進みたい方向性が分からなくなっているからであることに気付くだろう。さらに、あなたの親や親戚、ひいては世界があなたに対して下す評価の8割は間違っていること、少なくともそのように考えたほうが無難であることにも気付くだろう。

むしろ、自分に対する正確な評価は自分でしか下せない。家族や友人を含め、自分以外の人間が自分のことを正確に評価することなどそもそも不可能であり、それゆえに自分の評価を社会や他人に任せてしまうとそこには大幅なズレが生じてしまう。この大幅なズレが自分を見失う原因になったり、自分が嫌いになる原因になったりするのである。この記事ではこういったことも論じる。

本当の自分を見つけるにあたっても、まずなされるべきことは自分の現在地や自分の成り立ちについての把握である。旅先で道に迷った時に真っ先になされるべきことが現在地の確認であるのと同じである。人生に迷った時も真っ先になされるべきことは現在地の把握、つまり自分の成り立ちの確認なのだ。

現在地が分かっていないと、はじめの一歩、進むべき方向性だって決められない。はじめの一歩が踏み出せないということはつまり、その場で呆然と立ち尽くすしかないということを意味している。「自分が分からない」とか「向かいたい方向が分からない」と悩んでいる人もこれと同じである。

逆に言えば、自分の現在地が確認できれば、つまり「社会の激流」における自分の現在地や、自分のそもそもの成り立ちについて深く理解できさえすれば、あとは自ずと進みたい方向性は見えてくるし、自ずと次の一歩を踏み出すこともできるのである。

仮にあなたが、現状に引きこもっていたり、つまらない日常を繰り返したりしていて「自分が分からない」とか「自分が嫌いだ」と悩んでいるとすればこの記事は役に立つと思う。さらに進んで「本当の自分を見つけたい」とか「自分を変えたい」と考えている人にもこの記事は役に立つだろう。

多元的かつバランスのとれた世界観で物事を考えれば自分の現在地は把握できるし、進みたい方向性を見つけることも、次の一歩を踏み出すこともできるのである。参考になれば嬉しい。

  1. 想像を絶するほど「運」が支配しているこの世界
  2. 国家、学校、家庭が優秀な場合における、もう一人の自分

想像を絶するほど「運」が支配しているこの世界

自然界における大きな川が幾つもの支流によって構成されているように、あなたの人生に大きな影響を与えている「社会の激流」も主に3つの大きな流れによって構成されている。

3つの流れとはつまり、あなたが生まれた時点で国家が用意している社会環境、あなたが生まれた家庭の家庭環境、その他たまたま降りかかる種々のイベント、以上の3つである。あなたの人生はこの3つが複雑に絡み合う激流によって右へ左へと大きく翻弄されながら進んでいくことになる。

  1. たまたま国家が用意している社会環境
  2. たまたま生まれた家庭の家庭環境
  3. その他たまたま降りかかるイベント

例えば、あなたは偶然「今」の時代に生まれたわけであるが、あなたが生まれる時代がほんの100年か200年くらい前か後にズレていたとしたら、あなたが生まれてくる国家はだいぶ違うものであったに違いない。

考えてもみて欲しい。あなたが生まれた時点であなたの国家がたまたま他の国と戦争をしていたとすればどうだろうか。そんな状況であれば国内の学校教育とか生活福祉といったことは後回しにされがちで、あなただって戦争のために戦地に派遣されたり、あるいは工場で爆弾を作ったりしていただろう。しかしながら、あなたが生まれた時点で日本国はたまたま戦争をしていなかった。つまり、あなたの人生はこの「たまたま」の上に成り立っているのである。

あるいは、あなたは偶然「今」の家族のもとに生まれてきたわけであるが、あなたが生まれる家族が少しばかりズレていたとしたら、あなたが生まれてくる家庭環境はだいぶ違うものであったに違いない。

例えば、あなたの生まれた家庭が父親も母親もとても暴力的な人間で、あなたが失敗するたびにあなたを殴ったりタバコの火を押し付けてきたりするとすれば、あなたの性格だって保守的になり学校の成績だって伸び悩んでいただろう。

学校から帰ってくると父親が知らない女性とセックスをしている。「それを見たから」といって殴られる。夜になると母親が帰ってくる。「夕飯の支度をしていないから」とタバコの火を押し付けられる。そんな家庭である。

しかしながら、あなたが生まれた家庭はたまたま普通の家庭だった。少なくとも普通に成長できるほどマシではあった。やはり、あなたの人生はこの「たまたま」の上に成り立っているのであり、仮にあなたが社交的で穏やかな性格を獲得できたとすればそれは「たまたま」、仮にあなたが志望大学に合格できたとしても、この次元で物事を考えればそれは「たまたま」だったということになる。

自分の成り立ちに関して、自分が生まれてくる国家を選ぶことができない限りあなたはどうしても「運」に頼らざるを得ないし、自分の人生において自分が生まれてくる家庭を選ぶことができない限りあなたはどうしても「偶然」に頼らざるを得ないのである。

物事を思考する次元を1段階か2段階ほど上に繰り上げてしまえば、そこに広がっているのは「たまたま」が支配する世界であり、それは自分の力ではどうすることもできない世界、「運」と「偶然」が支配する世界なのである。

物事の本質をより深く見極めようとすれば、必然的にその物事が発生した枠組みを広げていくことになる。例えば、あなたの人間性を本当に公平かつ正しく評価しようとすれば、最低限あなたが育った家庭環境、できればあなたが生活している社会環境、ひいては時代の趨勢にまでも思考の枠組みを広げる必要があるだろう。「木だけでなく森も見る」必要がある。

ただ、一概に「思考の枠組みを広げる」と言っても、それをどこまで広げていけば良いのかという問題は生じる。この点に関してはバランスをとる必要があるが、思考をどこまで広げていくかは主にあなたが何を目指しているかによって大きく変わってくると思う。

もしもあなたが、そこら辺の人々と同じように特に人生に関して深く考えもせず、その日に吹く風に揺られて右へ左へと漂う毎日を送りたいのであれば、わざわざ自分の思考を発展させなくても良い。本当の自分を見つけることも自分を成長させることにも興味がない人は難しい話はやめにして、適当なテレビ番組かユーチューブでも観ていれば良いだろう。

しかしながら、物事の本質をより深く見極めたい人、本当の自分を見つけることや自分を成長させることに興味がある人なら、その人は自分の思考の枠組みを広げないといけない。その人は、自分の思考を1段階か2段階ほどは発展させる必要がある。

この点に関しては、次に挙げる「段階的思考レベル」の表を参考にして欲しい。この表を見れば思考を発展させるということが具体的に何を意味しているのかが直感的に分かると思う。例えば「東京大学に合格した」という1つの物事に対して幾つもの視点があること、同じ事象に対して幾つかの発展させた思考ができることをこの表は示している。

段階的思考レベル 採用する人間 「東京大学に合格した」という事象に対する考え方
思考レベル1 考えが浅い人間 その人は頭が良くて優秀だ
思考レベル2 知識人・政治家など たまたま家庭環境が良かったのでその人は勉強に打ち込めた
思考レベル3 政治家・思想家など たまたま国家が安定しており国民の福利厚生に積極的だった
思考レベル4 思想家・哲学者など 宇宙の広大さからすればそんなことはちっぽけだ
思考レベル5 哲学者・宗教家など から見て果たしてそれに意味があるのだろうか

「思考を発展させる」とは、思考レベルの階段を上っていくこと、つまり思考レベルをより高次なものにシフトさせることを意味している。「思考レベル1」を1つ高次なものに発展させれば「思考レベル2」となり、それは一般に「知識人」と呼ばれている人間がするものに近い思考レベルとなる。

「思考レベル2」を1段階ほど発展させればそれは「思考レベル3」となる。「思考レベル3」によって物事を考えるとすれば、それは「思考レベル2」よりもより広い枠組み、より高次元な世界観で世界を捉えることとなり、それは一般に「政治家」あるいは「思想家」と呼ばれている人間がするものに近い思考レベルとなる。

「思考レベル1」から高次元になればなるほど、その人の思考はより次元の高いもの、一般人には理解しがたいものとなる。「思考レベル5」で物事を考える人に至っては、その人は周りの人たちから「考え過ぎだ」とか「なに難しいことを言ってるんだ」とか言われて馬鹿にされることになるだろう。

当然ながら、普通の人であれば「思考レベル5」まで自分の思考を発展させる必要はない。ただし、本当の自分を見つけたいと考えている人や自分を成長させたいと考える人は、自分の思考レベルを2か3あたりまでには発展させておく必要がある。

さて、思考レベル1のみを採用して物事を思考する人間は「1本のストロー」を使って世界を見ている人間だと言える。1つの思考レベルに囚われてしまうとその人の世界を捉える枠組みは1つしかないので、自分がいる階層以外での思考、自分が持っている世界観を外れた思考をすることができない。

この人は「試験に合格した自分は優秀だ」とか「試験に失敗した自分はバカだ」と短絡的に物事を捉え、自分を過大評価したり過小評価したりする。あるいは「出世できている自分は能力がある」とか「なかなか出世できない奴らはバカだ」と次元の低い1つの思考レベルの中をグルグルと徘徊することになるだろう。

「1本のストロー」を使って世界を見る人は運や偶然が与える膨大な量の影響力を計算に入れていない人、つまり世界を単純化しすぎている人である。その人は自分の足の下で逆巻いている社会の激流に気付いていないので、その激流に翻弄されがち、混乱しがちである。

思考レベル1から思考レベル4程度までの複数の世界観を使って複合的に物事を思考する人間は「複数のレントゲン」を使って世界を見ている人間だと言える。多面的な世界を多面的な視点を使って捉えることになるので、その人の考え方はとてもバランスのとれたもの、道理に即したものとなる。

この人は試験に合格したとしても自分を過大評価することなく「努力もしたけど両親の支えも大きい」と考えるし、試験に落ちたとしても自分を過小評価することなく「努力不足だったかもしれないけど環境も悪かった」と考える。

あるいは、仕事で成功した場合も「努力も大きかったが運も大きかった。過信せずに努力を続けよう」とひたむきな努力を続けるだろうし、仮に仕事で失敗したとしても「失敗してしまった。自分が悪い側面もあるだろうが、上司が無能だったという側面もある」と考える。

このように「複数のレントゲン」を使って世界を見る人は運や偶然が与えている影響を計算に入れる人、つまり多面的な世界を多面的な視点で見ている人である。その人は自分の足の下で逆巻いている社会の激流の存在にも気付いているので、それに翻弄されたり混乱したりしない。

さて、現代の日本社会はまだまだ未熟であるので、その社会システムは前述のような複数の思考レベルが存在していることや、物事を多面的に考えることの大切さを国民の間に浸透させることができていない。むしろ、ひとりひとりの思考レベルを発展させることに関しては、完全に放置、完全にその人任せとなっている。

このようなわけだから、「1本のストロー」で世界を観察している人々と「複数のレントゲン」で世界を観察している人々が混在する結果になっている。どちらかというと「1本のストロー」で世界を観察している短絡的な人々の方が多いだろう。

ちなみに、あなたが「友達から理解されない」とか「親が分かってくれない」と悲しい思いをするのも、そもそも、あなたと彼らとの間では使っている思考レベルが違うからである。あなたと彼らとの間では見えている世界がそもそも違う。

分かりやすい例を挙げるとすれば、テストで悪い点数を取ってきた娘とその母親とのやり取りである。例えば、母親は次のように言って娘を叱るだろう。「あなたが毎日ちゃんと勉強してればこんな酷い点数は取らずに済んだのよ」。娘は言い返すに違いない、「私は悪くない。お母さんがもっと分かりやすく教えてくれればよかった」と。

母親は段階的思考レベルにおける思考レベル1のみに囚われた考えをしており、娘は思考レベル2のみに囚われた考えをしている。2人は違った思考レベルで議論を行っているので、どちらか一方が思考レベルを他方に合わせない限り2人が合意に達することはないだろう。

別の例を挙げるとすれば、なかなか就職できない息子とその母親とのやり取りである。例えば、母親は次のように言って息子を怒鳴るだろう。「あなたがしっかりしていれば就職できるはずだ」。息子は言い返すに違いない、「俺は悪くない。毎月ハローワークに行ってるけどダメなんだ」と。

母親は段階的思考レベルにおける思考レベル1のみに囚われた考え方をしており、息子は思考レベル3のみに囚われた考え方をしている。2人は違った思考レベルで議論を行っているので、どちらか一方が思考レベルを他方に合わせない限り2人が合意に達する瞬間はやってこないだろう。

お気付きの通り、物事を考える枠組みを広げていけばいくほど、世界を捉える次元を高くしていけばいくほど、物事はより大きな枠組みに大きな影響を受けていることが分かる。

思考レベル1において、その枠組みは対象の当事者だけに絞られたものであるが、思考がレベル2に繰り上がれば、その人の「家庭環境」までもが検討されることになる。家庭環境までも検討するということは、それだけ運や偶然も計算に入れるということである。なぜなら、誰も自分が生まれてくる家庭環境を選べないからである。

思考レベル3においては、その人を取り巻く「社会環境」までもが検討されることになる。社会環境までも検討するということは、思考レベル2でした以上に運や偶然を計算に入れるということである。なぜなら、国家単位にまで思考の枠組みを広げてしまえば個人など太刀打ちできるはずもなく、個人という存在は完全にその国家の成り行きや時代の趨勢に翻弄されるからである。

しかしながら、私たちの人生とはそもそもどこかの家庭環境を起点に広がっていくものであり、その家庭環境でさえどこかの国家を起点に成り立っているものである。ゆえに「人生」や「自分」というテーマを考えるにあたっては短絡的な思考を使うことはそもそも間違いであり、複合的な思考を使うことこそが道理に即した選択、必然的な選択であると言えよう。

以上の全てを踏まえれば、「人生」に対してあなたが自分自身で影響を与えている割合は、一般的に考えられているものより遥かに小さい割合、あなたが想像する以上に小さい割合となる。

「やればできる」とか「人生は自分次第」とかいう思考が採用されがちである日本社会においてはおそらく、人生における出来事の原因や人生における成功や失敗の原因の9割は「あなた」にあるとされるだろうが、これは間違いである。

あなたの家庭環境、ひいては、あなたの社会環境までをも包含した複合的な思考を使ってしまえば、人生に対してあなたが自分自身で影響を与えている割合は3割、よくて4割程度であろう。親が絶対的な主導権を握っている子供時代に至ってはその割合は1割にも満たない。

つまり、あなたの人生に影響を与えている原因の大半は「たまたま」なのであり、人生とは私たちが想像する以上に運あるいは偶然に左右されているのだ。「やればできる」わけじゃないし、「人生は自分次第」ではないのである。

国家、学校、家庭が優秀な場合における、もう一人の自分

あなたの人生に影響を与えている原因の大半は「たまたま」であり、人生とは私たちが想像する以上に運や偶然に左右されているとすれば、あなたの人生から運や偶然を全て取り払った場合、そこに広がっているのは自分が置かれる環境を自分で選ぶことのできる「夢のような人生」である。

人生から運や偶然を全て取り払えるということは、自分が生まれてくる国家と社会環境を自由に選べるということ、自分が生まれてくる家庭環境だって自由に選べるということを意味している。映画みたいな話ではないだろうか。

このセクションでは試しにこれをやってみようと思う。つまり、あなたの人生から運や偶然を全て取り払うのである。具体的には、優秀な国家のもとに生まれていた場合に、あなたはどのような人生を送ることが予想できるか、あるいは優秀な家庭のもとに生まれていた場合に、あなたはどのような人生を送ることが予想できるか、これを考える。

あなたが生まれてくる優秀な国家に関しては、今の日本社会を100年か200年ほど将来に延長させた世界を設定すれば良い。どこか知らない夢の国について想像を膨らませるよりも、自分が住んでいる国を起点にその将来を予想したほうが楽しいだろうし、比較的リアルな世界を構築することができると思う。それに私の推測と想像を少しばかり加味したもの、今回はそれを使う。

あなたが生まれてくる優秀な家庭に関しては、それに推測や想像を使う必要はないだろう。なぜなら、今の日本社会にはたくさんの優秀な家庭がすでに存在しているからである。今回はすでに実在している優秀な家庭の中から適当だと思えるものを幾つか選んで使おうと思う。

この思考的な実験は、あなたの世界観を広げること、自分の世界を捉える枠組みを広げることに役立つだろう。この思考的な実験によって、本当に運しだいで、それこそ運だけであなたの人生は変わってしまうこと、生まれてくる家庭が違うだけであなたの人生が激変してしまうことが分かるだろう。ただ分かるだけじゃない。あなたはそれを痛感することになる。

一方で、あなたは自分の現在の境遇にガッカリしてしまうことも考えられる。「あぁ、人生って本当に不公平なんだな・・」とか「最初から人生終わってるじゃん自分・・」と苦笑いすることだってあるかもしれない。自分の現在地にガッカリして、「もっと発展した国に生まれたかった・・」とか「もっとお金持ちの家庭がよかった・・」と気落ちすることもあるかもしれない。

しかしながら、あなたが産み落とされた現在地から目を背けないで欲しい。なぜなら、それがどんなにガッカリするような場所であっても、あるいは、それがどんなに気落ちするような境遇であっても、今の現在地を受け入れることこそが自分をレベルアップさせる際の「はじめの一歩」になるからだ。

現在地を知らない人が、どのようにして次の一歩を踏み出せるのだろうか。いや、現在地を知らなければ次の一歩は踏み出せない。つまり、自分の現在地を知っている人こそが次の一歩を踏み出せる人であり、自分の現在地を受け入れる人こそが進みたい方向に向かって前進できる人なのである。

国家、学校が優秀な場合における、もう一人の自分

今の日本社会を100年か200年ほど将来に向かって延長させれば、どんなに未熟な日本社会であっても今よりは発展しているだろうし、どんなに成長の遅い日本社会であっても今よりは成熟の形に近づいていると思う。

優秀な国家を考えるにあたって、これから100年か200年ほど日本社会を将来に向かって延長することになるが、日本社会におけるどの「線」を将来に向かって引き延ばすかについては適切な検討がなされるべきであろう。

つまり一概に「日本社会を将来に向かって引き延ばす」と言っても、引き延しうる「線」の候補の中には農林水産業だってあるだろうし運送業だってあるだろう。福祉産業が良いかもしれないしインターネット産業が良いかもしれない。100年後といえば今以上に発展を遂げている産業もあるだろうし、ひょっとしたら衰退して無くなっている産業だってあるかもしれないのだ。

「日本社会を将来に向かって引き延ばす」と発言している以上は、100年後に発展を遂げているであろう産業をある程度は正しく推測することが求められるだろうし、100年後に衰退している産業、あるいは無くなってしまっている産業を引き延ばす「線」として選択することは極力避けたい。せっかく将来を予測するのだから、ある程度のリアリティは確保しておきたいと思う。

日本の社会経済に限らず、世界における「社会」や「経済」と呼ばれるものは、発展のスピードはまちまちであるが総じて言えばそれは私たちの欲求の「効率的な充足」のために発展していく。社会経済を実際に「回している」のは私たち人間なのだから、これは当然と言えば当然だろう。ちなみに、私たちの欲求とは端的に言えば、食欲、睡眠欲、性欲、加えて所属欲、肯定欲、自己顕示欲といったものが挙げられる。

成熟した社会経済というものは、上記に挙げたような人々の欲求を「より早く」かつ「より多く」満たすことができる社会経済システムのことを指す。ひまわりが太陽に向かって一直線に成長していくように、総じて言えば日本の社会経済も、私たちの欲求の「より効率的な満足」に向かって一直線に発展している途上なのである。

例えば、インターネット産業がここまで爆発的な成長を遂げたのも、ひとえにインターネット産業が私たちの様々な欲求を「より早く」かつ「より多く」満たすことに莫大な貢献をしているからだ。

インターネットを使えば日本全国に散在するより多くのグルメ食品をより早く自宅で楽しむことができるし、インターネットを使えば世界中に散らばっているより多くの人々とより早くつながることができる。インターネット産業が私たちの時代の稼ぎ頭になっているのは必然だと言えよう。

インターネット産業の急成長を観察しても分かるように、私たちの日本社会はその産業全体を通して成熟した社会システムを獲得するために発展している途中である。日本社会の至る所に見られる産業はこれからも新しい技術革新によってスピード化が図られるだろうし、これからも新しい整理整頓によってスリム化が図られることになるだろう。

将来を予測するにあたっても、その産業がいかに私たちの欲求をより早く満たすか、あるいは、いかに私たちの欲求をより多く満たすかに焦点を絞った検討がなされる必要がある。

逆を言えば、私たちの欲求をより早く、そしてより多く満たすことに関して確実な貢献をする産業であるならば、その産業が衰退する可能性は限りなくゼロに近く、他国からの侵略など第三者による破壊や妨害に遭遇しない限り、その産業は長きにわたって成長するであろうことが推測できるわけである。

これから「日本社会を将来に向かって引き延ばす」ことをするが、その際にもこの点に留意するものとする。この点に留意した上で日本社会を将来に向かって引き延ばし、そのようにして発展を遂げた日本社会における100年後の別のあなたの人生、あるいは200年後の別のあなたの人生がどのようなものであるかを観察する。

ここから以下は半分が予測で半分が理想の世界、半分が現実で半分が私の想像の世界である。ちなみに、将来に向かって引き延ばす「線」として私が選択したものに関してであるが、科学技術に関しては「ビッグデータ」、社会制度に関しては「教育制度」と「マイナンバー制度」を選択した。

「ビッグデータ」「教育制度」「マイナンバー制度」の3つを選択した理由としては、それらは今後も長期間にわたって発展を続けることが見込まれる分野として広く周知されているし、それらは政府の要人たちの欲求の効率的な充足とも密接に結びつきやすい技術、あるいは制度だと考えられるからである。

これら3つの分野が私たちの日本社会ですでに一定以上の地位を確立していることを踏まえれば、これら3つの分野を将来の予測のための軸とするのは非常に現実的な選択だと思う。「ビッグデータ」「教育制度」「マイナンバー制度」、この3つが進むべき道、つまり理想的な活用例を提示することができるのも個人的には良い。もちろんそれは、あくまでも理想の話ではあるのだが。

さて、「ビッグデータ」「教育制度」「マイナンバー制度」の3本を軸に、日本社会を100年後か200年後の将来に向かって引き延ばしていくと、日本社会は今とは比べ物にならないほどの華々しい発展を遂げており、そこにはニートや引きこもりといった若者たちが存在しない社会、失業を含む数々の労働問題が解決されている素晴らしい社会が見えてくる。

例えば、「ビッグデータ」という科学技術の発展とその国策への応用によって見えてくるのは、国家による国内の仕事の需要供給バランスの一括管理である。日本国内には実にたくさんの仕事が存在しているが、その全ての需要と供給のバランスを国家が管理するわけである。

国内の企業や個人事業主の全てが、国家が管理する巨大データベースに直接、自分たちの雇用状況を報告するとすればどうなるだろうか。例えば、すでに雇用している労働者の職種と人数、現在雇用を希望している労働者の職種と人数を随時(例えば1ヶ月に1回程度)そのデータベースに報告するものとする。すると、政府は国内の仕事のリアルタイムな需要供給バランスを手に入れることができる。

仕事の需要供給バランスの一括管理によって可能になるのは、人材が必要とされている産業の的確な把握や、その産業に対しての効率的かつピンポイントな人材投入、特定の産業の成長を見越した上での若者の人材育成などが挙げられるだろう。

このリアルタイムな需要供給バランスを分かりやすいグラフや表にしてウェブに公開するとすればサードパーティーの活性化、つまり仕事の需要供給バランスの可視化によって問題解決に乗り出す第三者の活性化や、それに付随して興る新しい産業の活性化も期待できる。

これら全ては、国家のムダのない発展に直結している。これらによって政府はより多くの雇用情報をより早く自国の発展のために活用できるようになる。ゆえに、上記のようなビッグデータの活用が100年後か200年後の日本社会において実現している可能性は極めて高いし、実現していなかったとしても実現に向けて試行錯誤がなされていることは確実だと思う。

さらに期待できるのは、上記のような「ビックデータ」の活用と、「教育制度」並びに「マイナンバー制度」が結びついた場合に見られる、とても魅力的な相乗効果である。

ビッグデータによって現在の仕事の需要供給バランスが把握できるということは、ビッグデータによって将来の仕事の需要供給バランスをある程度は予測できるということである。

ビッグデータを活用すると言えども、10年先の需要供給バランスを予測することは少しばかり無謀であると思うが、5年先であればその予測はかなり現実的なもの、十分に活用しうるものだと言えよう。

5年といえば、高校入学から数えればその若者が成人に達するまでの期間、中学2年生から数えればその若者が高校卒業に達するまでの期間である。「教育制度」の中のいずれかのタイミングにこの5年間を組み込んでしまえば、成長産業を見越した上での若者の職業訓練、並びに成長産業に対して十分に訓練された優秀な人材をピンポイントで大量に投入することが可能となる。

現実的な話をすれば、この職業訓練は高等教育のタイミングで実施すれば良いと思う。つまり、高等学校に入学するタイミングである。大学進学を望む若者たちには従来通りの高等教育を施せば良いだろうが、その一方で、大学進学を望まない多くの若者たちにこの新しい職業訓練を施せば良いだろう。

この新しい高等教育は日本の仕事の需要供給バランスに基づいた論理的かつ計画的なものであるので、この進路を選択する国内の若者はほぼ全て何らかの成長産業において熟練したスキルを獲得する結果となる。

このことは若者たちの長期間にわたる就業をある程度は保証するものであるし、少なくとも従来の目隠しをしてダーツをするみたいな無計画かつ運頼みな高等教育とは違って、統計的根拠に深く根ざした教育制度、自分の将来に強い関心を持つ若者たちにも納得してもらえる教育制度になるだろう。

さらに、「マイナンバー制度」と結びつける形でその若者が受けた職業訓練の種類や年数を併記しておけば尚良い。そのデータさえも国家の巨大データベースで管理してビッグデータ化してしまえば、我が国のすべての若者が習得しているスキルやそのレベル、その若者の就職歴や現在就職しているかどうかの有無までをも把握することができる。

現在就職していないようであれば、その若者が訓練を受けた技術に応じてその技術を必要としている就職先を紹介すれば良い。その技術を必要としている就職先なら先のデータベースを参照すれば一発で多数がヒットする。ヒットして表示されたリストの一番上からその若者に提案していけば良いだろう。

以上のようにすれば、まさに「適材適所」が国家レベルで実現する。国家が若者たちの就職の面倒を見てあげるのである。なんとも頼もしい国家、なんとも素晴らし国家ではないだろうか。

これは若者たちにとっても非常に良い仕組みだと言えよう。考えてもみて欲しい。若者たちだって履歴書を書く必要などなくなるのである。なぜなら国家がその若者の習得しているスキルや就職歴を全て知っているからであり、国家がその若者に直接、その若者を必要としている就職先を紹介するからである。その若者は国から自動送信されてくるメールをスマホかPCでチェックするだけで良い。

ちなみに「成長産業の予測が外れてしまった場合はどうすればいいのか」とか「新しい職業訓練において生徒を教える教師たちはどのようにして訓練するのか」といった疑問を持つ人も出てくると思う。こういった疑問に答えることは今回の思考的な実験の範囲を超えるものなので、興味があればどうかご自身で考察を続けて欲しい。

さて、以上に挙げた話は単なるフィクションや映画の脚本なんかではない。これらの話はすべて今の日本社会にすでに存在している技術の話、その技術を活用すればそれこそ来年か再来年にでも日本全国に実施できるレベルの話である。国内にだって飛び抜けて優秀な技術者や政治家が多数存在しているのであり、このことを考えれば上記に挙げたようなインフラを整備すること自体はまったく問題のない話だろう。

しかしながら今の日本社会は未熟であるし、そもそも上記に挙げたような国策を実行に移せる人材も予算もないのが現実である。人材と予算がない。たったこれだけの理由で技術的には来年か再来年くらいには実現が可能な国策であっても、それが実際に実現するためには100年、いや200年もの膨大な時間がかかってしまうのである。なんとも悲しい話ではないだろうか。

ではその無意味かつ不必要な100年、あるいは200年をサクッと省略してみたいと思う。つまり、上記の話がすでに私たちの日本社会に実現している状態を先取りして思考的な実験を続けるのである。

「ビッグデータ」の活用によって現在の政府はすでに国内の仕事の需要供給バランスを一括管理しているし、「教育制度」「マイナンバー制度」との結びつきによって現在の高等学校はその教育課程の中に5年先の成長産業を見越した職業訓練をすでに組み込んでいるとする。

この場合、私たちの人生はどのようなものになることが予想できるだろうか。この場合の私たちの学生時代はどんな感じになるだろうか。休み時間の友達との会話、進路指導の先生との会話はどのようなものになることが想像できるだろうか。少しばかり考えてみて欲しい。

中学校で学ぶような、国語・数学・理科・社会といった、ありきたりで漠然とした教育内容とは打って変わって、あなたが新しい高等学校で学ぶことになる教育内容はあなたの将来に直結しているもの、国家が管理するビッグデータがはじき出した今後の国家の発展を支えるであろう成長産業に関するものである。

例えばそれは、石油に代わる代替エネルギーを実用化するためのエネルギー産業とか、宇宙旅行を民営化するための宇宙産業などが考えられるだろう。あるいは、輸送貨物の全自動化とスピード化を図るための運送IT産業かもしれないし、VR(ヴァーチャル・リアリティ。仮想現実)による極限までにリアルな快楽を追求するVR娯楽産業が考えられるかもしれない。

新しい高等学校の入学に際して、国家からあなたに提案される教育コースはおそらく10を超えるだろうが、その全てに共通しているのは、その全ては今後長きにわたって雇用が拡大していくであろう成長分野、今後長きにわたってその市場価値が上昇していくであろう有力分野であるという点である。非常に魅力的ではないだろうか。

それら国家が提案する10以上の教育コースから、あなたは自分のために2つの教育コースを選択するのである。1つは今後の成長予測が堅実である分野を選択すれば良いだろうし、もう1つはただ単純に自分の好みに合わせた分野を選択すれば良いだろう。つまり、あなたは高等教育から始まる5年間にわたって、今後の国家の発展を支えるであろう成長産業を2つほど集中して学ぶわけである。

ここまで具体的な産業を国家から提案されるわけだから、多くの若者が大学に進学するための従来の古くて漠然とした高等教育よりも、長期にわたる雇用がかなりの割合で約束される新しくて具体的な高等教育を選択するであろうことは想像にたやすい。具体的なスキルが身につくのも良い。

あなたも新しい高等学校に入学したとして、数ヶ月も経てばどのような心境になっていることが想像できるだろうか。例えば、あなたは休み時間に新しくできた友達とこんな会話をすることになるだろう。あなたは言うのである。「従来の高校に進学した人たちはいったい何を考えているんだろうな。高校に入ってまでも国語、数学、理科、社会を学ぶ意味なんて本当にあるのだろうか」。

すると、あなたの友達は答えるのである。「だよな、大学に進学したところでだよな。そもそも多くの企業が求めている人材はすでに訓練が終わっている人材、即戦力になる人材だしな。そういえば次の授業なんだけどさ、俺はプログラミングなんだけど君は何?」「あぁ俺は宇宙工学だよ」。授業開始のベルが鳴り、あなたとあなたの友達はそれぞれの教室へと向かう。これが高校1年生である。

時は流れ・・5年間にわたる集中的な職業訓練が無事に終わろうとしている頃、つまりあなたが二十歳になるかならないかの頃に、あなたは進路指導の先生と自分の就職先について話し合うことになるだろう。日が暮れて空がオレンジ色に染まる時間帯、あなたは職員室の隣の進路指導室へと足を運ぶ。来年、高校を卒業した後にどこへ就職するかを先生と話し合うためである。

ちなみに、あなたが5年にわたって訓練を受けてきた宇宙産業は、国家の予測通り成長産業となっており、あなたが5年間にわたって訓練を受けてきた技術は多くの企業から切実に必要とされている状態となっている。つまりあなたが職業訓練を受けた産業の市場価値は高騰しており、あなたという人材を欲しがっている企業が、それこそあなたの前に長蛇の列を作っているのである。

進路指導の先生はあなたに言うだろう。「今年の宇宙産業の求人量はすごいな。君を欲しいと言ってきている企業だってすごい数に上っているよ。この教育コースを選んでおいて本当に正解だったね。そういや、君を欲しがっている企業の中には NASA もあったけど、君はどうするの?」。

あなたは言うに違いない。「いやぁ本当にラッキーでしたね。5年間とても楽しかったですけどね。そうですか NASA ですか。まぁ嬉しいですけど海外には行きませんよ。そもそも宇宙を勉強してきたのは国内の宇宙産業の発展のためですから。まぁ JAXA とかに行きますよ」。

いかがだろうか。ここまで日本社会が発展しているとすれば、ニートや引きこもりになる若者などほとんどいないだろう。なぜなら彼らにはニートや引きこもりになる暇がないからである。彼らは国家によって計画的な職業訓練を受け、成長産業から切実に必要とされる「次世代の若者」なのである。

ここまで日本社会が発展しているとすれば、日本社会にはパワハラやモラハラをはじめとするあらゆる労働問題に悩まされる若者は極端に減るだろう。なぜならば「次世代の若者」は成長産業における生産手段、つまり専門的なノウハウや科学技術を自分たちの頭の中に所有しているからである。

嫌いな上司がいればすぐに辞めてしまえば良い。あなたを欲しがっている企業はそれこそあちこちに散在しているのだから。つまりあなたはあなたの上司と対等、いやあなたの上司よりも強いのである。

さて、ここまでで楽しかった思考的な実験は終わりであるが、この思考的な実験において、そもそもあなたが「優秀な人材」になれたのはなぜだろうか。

あなたの努力だろうか。あるいは、あなたの実力だろうか。もちろん、あなたの5年間にわたる努力や実力だって大きいと思う。しかしながら、その原因の大半は「たまたま」である。なぜなら、端的に言ってしまえば、あなたはただ単純に国家が用意したベルトコンベアーの上を流れただけだからである。

もちろん、新しい高等教育の枠組みの中においても能力の差は出てくるだろう。同じ宇宙産業を選択する学生たちの中でも飛び抜けて優秀な成績をおさめる学生は出てくるだろうし、成績が伸び悩む学生だって出てくると思う。この点は従来の学校教育と、さほど変わらないと言えよう。

しかし決定的に違う点としては、学校内で成績が悪い学生であったとしても、それはあくまで学校内だけに限った話であり、一歩でも外の市場経済に出てしまえばその学生は優秀な人材、つまり成長産業におけるあらゆるノウハウを学び終えた優秀な人材なのである。

どんなに彼の学校内の成績が悪かろうが彼は成長産業におけるノウハウを頭に詰め込み終えているので、一歩でも学校の外に出れば数々の企業から必要とされるのである。

では、学校内の成績が悪い学生であってもここまで「優秀な人材」になれるのはなぜだろうか。その学生の努力だろうか。もちろん、その学生なりに努力や苦労だってするだろう。しかしながら、その学生が優秀になれるのも「たまたま」である。なぜなら端的に言ってしまえば、その学生だってただ単純に国家が用意したベルトコンベアーの上を流れただけだからである。

以上の思考的な実験から導き出せる結論、それは国家の状態が少し違うだけで、あなたの人生は大きく変わってしまうということである。国家が今よりも少しばかり発展さえしていれば、その国家に生まれてくるあなたの人生の全ては大きく変わってしまう。

つまり、あなたの人生は「やればできる」わけじゃないし「自分次第」でもない。国家が用意している社会的な環境は大きい。先ほどの思考的な実験においてもそうであった。あなたが優秀な人材になるために必要なものは「運」だけである。

家庭が優秀な場合における、もう一人の自分

国家以上に露骨にあなたの人生を変えてしまうもの、国家よりも身近な場所であっけなくあなたの人生を変えてしまうもの、それは間違いなく「家庭環境」だろう。

あなたがどのような家庭に生まれてくるか、ただそれだけであなたの人生は天国にもなりえるし地獄にもなりえる。そしてこの境界線は、ただ単純に「運」なのである。

家庭というものは国家と比べてしまえばそれは非常に小さくて身軽であるゆえに、家庭が発展するスピードは国家が発展するスピードよりも早い。さらに、完成までにかかる期間だって家庭のほうが圧倒的に短いだろう。

成長スピードだけに着目してしまえば、家庭とは2ヶ月程度で成長してしまうアサガオだと言える。小学生や中学生の頃、理科の実験でアサガオを育てた経験はないだろうか。アサガオを育てる難易度はとても低いので、よほど変な育て方をしない限り幼い子供でさえも花を咲かせたり種を収穫することができる。極端な話、アサガオは放っておいても成長する。家庭も同じである。

一方で国家とは、成木になるためにおよそ150年以上もの年月を要するヒノキである。神社やお寺などの敷地内で、非常に大きくて堂々としたヒノキの成木を見上げたことがある人は多いだろう。大きいものだとその高さは30メートル、つまりマンションの10階程度にまで成長する。

成木になるまでに長い年月がかかること、成木になるまでの管理がとても大変なことからヒノキは建材の中でも最高級のものであるが、維持管理が難しい点、そして成長のスピードが非常に遅い点に注目すれば、これらは国家と似ている。

現代においても数多くの「国家」と呼ばれる国や地域が存在している。巨大な国家もあれば小さい国家もあるだろう。しかしながら、いずれの国家も「完成」と呼べる状態とはほど遠い。どの国家も数々の大きな社会問題を抱えているし、その国に住む国民たちだってみんながみんな幸せなわけじゃない。むしろ傷ついている国民や不幸な国民の方が多いと思う。それはその国家がまだまだ未熟だからである。

仮にその国家が「いい感じに発展している」と言えてたとしても、気まぐれな隣国の侵略に遭ったり、ひどい場合には破壊されてしまうのだからやるせない。どんなに着実に発展している国家であっても、その国家は常に国際社会における紛争に巻き込まれる可能性を秘めているし、不穏な隣国から何らかの危害を受けたりする可能性だって常に存在している。つまり国家は不安定なのである。

しかしながら家庭は違う。家庭は国家と比較すれば完成させやすいもの、安定させやすいものである。それはただ単純に、家庭が国家と比べて遥かに小さく遥かに身軽だからである。

現代においても日本社会には「家庭」あるいは「世帯」と呼ばれる集まりが57都道府県に砂つぶのごとく散在しているわけであるが、その中でも十分に発展している家庭、つまり「完成」と呼ばれる状態に近い家庭は実際に存在している。

もちろん「完成」と呼ぶための条件を厳しくすれば厳しくするほど完成している家庭の数はその分だけ少なくなるだろうが、「完成」と呼ぶための条件をいくらか甘く設定すれば、それこそ完成の域に達している家庭は一定数存在していると言えるだろう。

これからする思考的な実験においても、日本国内にたくさん散在している家庭の中から「すでに完成の域に達している」と言えるものを幾つか選んで使おうと思う。

ちなみに、何をもって家庭の「完成」とするかに関しては適切な検討がなされるべきだと思うが、今回は生まれてくる家庭が違うだけで人生が大きく変わってしまうことが実証されれば良いので、家庭の発展状態の中でも一番わかりやすい要因、つまり経済面の完成をもって「その家庭は完成している」ものとする。今回はその家庭の精神面や福祉面のことは考えない。

「経済面が完成している」というのは分かりやすく言えば、家族の中の誰かがわざわざ働かなくても家族みんなが楽しく生活していける経済状態にあること、あるいは、わざわざ外へ出て就職活動をしなくても家族が経営している会社、あるいは家族が運営している法人に簡単に就職できる状態にあることを指すものとする。このような家庭はまさに経済面に関して「完成している」と言えると思う。

さて、これから挙げる話はすべて実話である。私の昔の知人、あるいは現在の知人の知人の話である。日本国内に実在する実際の家庭を取り上げることによって、その家庭にあなたが生まれていたとしたら、ただそれだけでいかにあなたの毎日が変わっていたか、いかにあなたの人生が変わっていたかが実感できると思う。

少しばかり凹んでしまうことも予想されるが、不必要に凹んでしまわないようにと、ここで改めて申し上げておく。大切なのは自分の現在の境遇に凹んでしまうことではない。大切なのは現在地の把握であり、それは本当の自分を見つけるための通過点、自分の知的成長の通過点に過ぎない。

この思考的な実験においては、ただ単純に運や偶然だけで自分の人生があっけなく変わってしまうことが確認できれば良い。この点を再三再四ほど確認した上で次に進んで頂ければ良いだろう。

最初に考える「完成された家庭」は、家族の中の誰かがわざわざ働かなくても家族みんなが楽しく生活していける経済状態にある家庭である。あなたも以下に挙げる家族のもとに生まれてきたものとして、これからの文章を読んでみて欲しい。

この家族は関東の都心に20階建ての高層マンションを2棟ほど所有している。これはつまり月々の家賃収入が数百万、あるいは数千万あることを意味している。経済的に言えば働く必要など全くないのであるが、その家族の父親は医者として市内の病院に、母親は建築家として自分の設計事務所に勤務している。

彼らには2人の子供がおり、長男は大学3年生で長女は大学1年生だ。確か「学校に近いから」といった理由で子供たちは自分たちの高層マンションの1階で2人暮らしをしており、両親はもう一つの高層マンションの最上階に住んでいる。

妹さんの方は車の運転が大好きで「セルシオ」という高級車に乗っている。ちなみにこのセルシオは「お兄ちゃん」からのお下がりである。「お兄ちゃん」は今はベンツとBMWに乗っているらしい。もちろんこれらの高級車は全て親からのプレゼントである。スマホと一緒に親が買ってくれたらしい。

妹さんの方は確か「アパレル関係に進みたい」みたいなことを言っていたと思うが、お兄さんの方は母親の建築事務所を継ぐために大学で建築学を学んでいる。長女も長男も揃って「おしゃれな靴を買うこと」が趣味の一つであるが、自室のクローゼットルームにはそれぞれ100足以上のお気に入りの靴が並んでいる。彼らはいわゆるセレブなのである。

いかがだろうか。このような家庭に生まれていたとしたら、あなたはどんな学生時代を過ごしていただろうか。考えるまでもないだろう。最低限、親から買ってもらったベンツで大学に通学し、親が用意してくれている事務所を継ぐために建築学を学んでいるに違いない。

なんとも華やかな話である。では、この家庭に生まれた長男あるいは長女はなんらかの努力をして、この恵まれた家庭環境を手に入れたのだろうか。いや違う。その恵まれた家庭環境は、彼ら2人が生まれた時にはすでに用意されていたのである。つまり人生とは「やればできる」わけじゃないし「自分次第」でもない。

次に考える「完成された家庭」は、わざわざ外へ出て就職活動をしなくても家族が経営している学校に簡単に就職できる状態にある家庭である。引き続き、あなたもこの家族に生まれてきたものとして以降の文章を読み進めて欲しい。

この家族は関西の方で中規模な私立学校を経営している。この家族の父祖は学校の会長で、父親は学長である。ちなみに母親は病気が原因でかなり前に他界している。

この家族には2人の子供がおり、長女は確か25歳で長男は23歳だったと思う。長女は実家の近くの家族所有のマンションで家政婦と一緒に暮らしており、長男もやはり家族所有のマンションで一人暮らしをしている。長男は自宅から自分のポルシェで実家の学校へと通勤していた。長女はと言うと、ひとまず実家の学校では働いておらず、別の場所で事務員として働いていたと記憶している。

ちなみに、長男は会長である祖父のお気に入りでもあったので、職員の採用試験の面接の際にも面接官としてその場に頻繁に参加していたらしい。この長男は応募者に対して「あなたの強みを1分で表現して欲しい」とか「生徒の心に寄り添うために今の学校には何が必要だと思うか」などと質問していたようだ。

問題は、この長男は精神病を患っており、たまに発狂したり記憶が飛んだりしていたことである。精神病を患うようになったのは大学を卒業してからの話らしい。

さらに悪い事に、この長男はストーカー気質でもあった。聞いた話によると、好意を持っていた女性に対して1日に何度も一方的な電話をかけたり、挙げ句の果てには「俺と付き合わないと怖いお友達を送るよ」などと脅迫まがいな事までしていたのである。これを何ヶ月にも渡って続けていた。

こんなどうしようもない人間であったにも関わらず、私が聞いたその時点ではまだ学校をクビにならず、新しい職員の面接が行われるたびに面接官として面接を行っていたというのだから驚きである。これはひとえに、その長男が祖父である会長のお気に入りであったことと、学長である父親が子供に対して無関心であったことが大きいらしい。子供も子供であるが、親も親である。

いかがだろうか。上記のように学校を経営している優秀な家庭に生まれていたとしたら、あなたはどんな20代を過ごしていただろうか。考えるまでもないだろう。たとえ精神病を患っていたとしても、たとえストーカー気質があったとしても、たとえ女性を脅迫したとしても関係ない。あなたはポルシェで通勤しているだろうし、その学校の採用試験の面接官にさえなっているのである。

なんともふざけた話ではないだろうか。では、ここまでふざけた条件であっても就職できたり面接官になれたりするのはその人間が優秀だからだろうか。その人間が素晴らしい人間性を持っているからだろうか。いや違う。

彼がその学校で要職についたり面接官になれたりするのは、彼がただ単純に学校を経営している優秀な家庭のもとに生まれたからである。ただそれだけなのだ。生まれてくる家庭が優秀であれば、人間性に大きな問題を抱えていたとしても簡単に就職できるし面接官にだってなれる。つまり人生は「やればできる」わけじゃないし「自分次第」でもない。

以上、実在する例として2つを挙げたが、他にも挙げようと思えば地方で有名な工場を経営している家族とその子供の話、都心で病院を経営している家族とその子供の話なども挙げることができる。

しかしながら上記2つの例だけでも、生まれてくる家庭が違うだけで人生があっけなく変わってしまうこと、それこそ天地がひっくり返ってしまうくらいに変わってしまうことが十分に確認できたと思う。ハッキリ言ってしまえば、人生とは「やらなくてもできる」し「親次第」なのである。

世界に対する見方が少し変わってきたと思う。「なかなか就職できない。自分は能力がない」とか「なかなか正社員になれない。自分が悪い」などと思い悩む必要はないだろう。

根本的なことを言ってしまえば、なかなか就職できなかったり正社員になれなかったりするのはあなたが悪いというよりはむしろ家庭や国家が未熟だったからであり、なかなか昇給できなかったり出世できなかかったりするのもあなたが悪いというよりはむしろ家庭や国家が未熟だったからである。「ただ運が悪かっただけ」という言い方もできるだろう。

採用試験の面接官たちだって、上記の話を聞いてしまった後では「そこまで大したことはない」ことが分かると思う。学校の先生や親などは「面接官たちは面接のプロなんだから、あなたの人間性をしっかり見抜くはず」みたいなことを言うかもしれない。しかし学校の先生や親たちは自分の知らない世界に対して勝手な幻想を抱いているに過ぎない。面接官たちだって強い好みや強い癖を持っている同じ人間であることを忘れてはいけない。

もちろん、中には本当にあなたの人間性を見抜く面接のプロも存在するだろうが、たいていの面接官は「数字」と「顔」と「印象」しか見ていない。ひょっとしたら、あなたを担当した面接官だって女性をストーキングしているかもしれないし、毎晩キャバクラに通って若い女の子たちを周りにはべらせながら「ワハハハ」と高笑いしているかもしれないのである。

つまり、私たちが生活しているこの日本社会は学校の先生や親が考えているほどには整っていないのだ。それはお世辞にも「整っている」とは言えない。むしろこの社会は、まだまだ未熟で、つぎはぎだらけで、ボロボロで、使い古されたお下がりで、どうしようもない不良品の寄せ集めでできているのである。

こんなどうしようもない場所、それがあなたの産み落とされた場所、あなたが今立っている現在地なのである。だから、たとえ何かに失敗したとしても不必要に思い悩む必要はないし、何か残念なことがあったとしても、それを自分一人で抱え込む必要はない。今の社会は適当な場所なので、もっと適当に考えて良い。

まとめ

今回の記事では、あなた自身を形作っている社会環境、そして家庭環境について詳しく考察することができた。私たちの住んでいる社会は多面的であるがゆえに、「人生」や「自分」について考える場合も多面的な視点を使って考えることが大切であることが分かったと思う。

多面的な思考をするためには思考の枠組みを段階的に広げていく必要があり、そのために段階的思考レベルを活用したことも記憶に新しいだろう。1本のストローを使って世界を見るのではなく、複数のレントゲンを使って世界を見ることも大切なポイントであった。

しかしながら、この記事全体を通して主に伝えたかったことは「社会とはけっこう適当な場所だし、運や偶然が与えている影響も大きい」ということ、「だから自分が悪いように思えたとしても、社会が悪い場合だって多い」ということである。この点がしっかりと伝わっていれば嬉しい。

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