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父親、母親が嫌いでも大丈夫【親がうざい時の6つの対策】

今の日本社会が抱えている欠陥の中でも、非常に悩ましい欠陥は間違いなく、無知である上に無能な親があふれていること、そもそも親になるべきじゃない大人が親になっていることだと思う。きっと今日も多くの若者たちが名ばかりの無能な親に苦しめられ「親など消えればいい」と心の中でつぶやいていると思う。

残念ながら今の日本社会においては、思いやりがなくても、優しさがなくても、そもそも親の素質が全くなくても、その人間はあなたの親になり得るし、見た目ばかりが大人だけの大人、つまり子供のまま成長が止まってしまった幼稚な大人であっても、その大人はあなたの親になり得る。

しかも、そんな無能な親に限ってよく子供のことをバカにする。無能な親に限ってズケズケと「心の中」に踏み込んでくるし、ギャーギャーわめいて「心の中」を踏み荒らす。親といえども彼らは子供なのである。立ち入ってもいい場所と立ち入ってはいけない場所の違いが分かっていない、大人の姿をした子供なのである。いい迷惑である。

タチが悪いのは、子供に親は選べないということだろう。どんなにあなたが父親、あるいは母親が嫌いであっても彼らを取り替えるわけにはいかないし、どんなに「親がうざい」と思っても Amazon で気軽に買い換えるわけにもいかない。親を Amazon で買い替えられたとすれば、今日も Amazon の売れ筋ランキングのトップを独走しているのは「素晴らしい親」であるに違いない。

さらにタチが悪いのは、どんなに親がうざいと思ってもあなたが経済的に依存しているのなら一緒に暮らさないといけないことだろう。一緒に暮らしている限りどんなに父親が嫌いでも、どんなに母親が嫌いでも、あなたは彼らの子供じみた悪口から逃げることはできない。今晩も例のごとく、彼らはあなたの部屋のドアをバーンと開けてペラペラとあなたの悪口を垂れ流すに違いない。進歩がない。まるで進歩がない。

彼らの悪口のしつこさは天下一品だ。それは地の果てまでもしつこく追ってくる。「だからお前はダメなんだ」とか「お前なんかいない方がいい」とか「バカじゃないの?」とか「こんなこともできないの?」とか言ってくる。

彼らの悪態のしつこさは終わること知らない。それは地球を何周したか知れない。ことあるごとに何度もしつこく繰り返す。朝ごはんの時も夕飯の時も、リビングでテレビを見ている時も、親の口からは全く同じ悪口が繰り返され全く同じ悪態が繰り返される。昔からそうである。まるで進歩がない。彼らは成長の止まった「子供」なのだからしょうがない。

あなたがテストで赤点を取ったり、あるいは成績が悪かったりしたら大変だ。親の悪口や悪態はさらに酷くなるだろう。「お前は頭が悪い」「お前は出来損ないだ」「なんでこんな計算を間違うの?」「小学校に戻ったら?」といった暴言が繰り返されることになる。

昔ろくに勉強できなかった親ほど自分のことは棚に上げて子供のことを責め立てる。彼らは親としての能力はほとんどないくせに、自分のことを棚に上げること、あるいは自分の欠点に目をつぶることに関しては無限大の能力を発揮する。能力を発揮すべき場所が違う。

まるでアラーム機能しかついてないスマホである。けたたましいアラーム音の種類に関しては実に100種類以上も持ち合わせているくせに、そのスマホは電話をかけることもできなし音楽を聴くこともできない。ネットで調べ物だってできないのだ。そんなスマホなどうるさいだけだろう。そんなスマホなどいらない。親も同じである。

あなたに兄弟あるいは姉妹がいれば、状況はさらに厄介になるだろう。あなたは間違いなく比較されることになるからだ。兄弟同士で比較するとその兄弟仲も悪くなってしまうというのに無知な親はそんな単純なことに気付かない。自分の欲望のままに、あなたとあなたの兄弟を比較する。

「あなた弟に負けてるよ」「妹を見習いなさい」「お兄ちゃんは勉強ができるのにね」「お姉ちゃんはいい子なのにね」と言って比較する。何かあるとすぐに比較する。

親が発する悪口の中で最もその無能さ、その無計画さを証明しているものは何と言っても「産みたくなかった」という発言だろう。「本当はあんたなんて産みたくなかった」「本当は子供なんていらなかった」「あんたさえいなければ」「おろせばよかった」といった悪口だ。

一言で言えばバカである。このようなことを言う親はバカである上に無能であり、無能である上に無計画である。無計画な人間など本来は親になるべきではない。無計画な人間が親になどなったら、その子供たちには多大な迷惑がかかることなど目に見えている。

無計画なドライバーが車を運転したらどうなるだろうか。助手席に座っているあなたは、例えばこんな文句を聞かされるのだ。「本当はあの道に行きたかった」「本当はあっちに向かうはずだった」「あそこを曲がってさえいれば」「そもそも運転なんてしなきゃよかった」。あなたは思うに違いない。「じゃ初めから運転するな」と。親も同じである。無計画な人間など本来は親になるべきではないのである。

このように、日本社会を構成している一般的な家庭はその始まりにおいて無計画である場合も多く、大体にして欠陥だらけである。日本社会の一般的な家庭が欠陥だらけであるその主な原因は、本来は親になるべきではない未熟な大人たちが親になっていること、親になるにはまだまだ時期尚早な大人たちが何の障壁もなく親になっていること、このことに尽きると思う。

そもそも親になるということは、ひとりの人間をゼロから育むということであり、この「人間育成」という職業は本来この世界に存在する職業あるいはスキルの中で最も難しい種類のもの、プロ野球選手やプロの料理人よりもはるかに高度な技術が求められる職業のはずである。

「人間育成」という高尚な職業と比較してしまえば、この世界に存在するどんな職業も色あせてしまうし、私たち人間が就業しうる職業の中でもまさに最重要、最高峰の職業のはずであろう。残念ながらこの事実は忘れられがちのようであるが、親という職業は本来、高度な技術と多重の責任の両方が求められる非常に恐れ多い職業なのである。

ところが、あろうことか今の日本社会においてはゲップをするくらい簡単に親になれてしまう。親になるのには何の資格も試験も必要ない。出るものが出てしまえば、ただそれだけで親になれる。親になることはゲップと同じくらい簡単なのである。

そもそも、今の日本社会はまだまだ未熟なので親になるための訓練施設や親になる技術を身につけるための訓練コースを用意しているわけでもない。国民が自動車を運転することに関しては狂ったように法律で規制するくせに、国民が親になることに関しては完全にその人まかせ、完全なる無法地帯になっている。

自動車を運転することとひとりの人間を育てること、いったいどちらが難しいとお考えだろうか。言うまでもなく子育ての方がはるかに難しい。もし仮に自動車の教習施設や走行を規制する法律がなかったとすれば、日本の路上はどうなっているだろうか。誰もかれもが自由に運転できるとすれば、きっと路上のあちこちで自動車事故の煙が立ち上っているに違いない。

現代の日本社会には子育ての教習施設や親になることを規制する法律がない。誰もかれもが自由に親になって子育てをしている。だから日本の家庭のあちこちで児童虐待や家庭崩壊といった煙が立ち上っているのである。バカに親は務まらない。親がバカだと子供たちに迷惑がかかる。子供たちに迷惑をかけているバカな親が多過ぎる。

さて、この記事ではこれから多くの若者たちを悩ませている無能な親、あるいは未熟な家庭について考えていこうと思う。本来の親や家庭のあり方について考えつつ、いかに現代社会ではそれが欠落しているか、いかに未熟な親であふれているか、いかに多くの子供たちに深刻なほどの迷惑が及んでいるかを見ていこうと思う。

この記事を読めば、あなたが未熟な父親や母親を嫌いになるのはとても自然なことで、実はそんな未熟な親たちの存在がほとんどの社会問題の温床になっていることに気付くだろう。

記事の中ではさらに、そんな未熟な親が作り上げる家庭などしっかり機能するはずもないこと、その理由と仕組みについても深く考える。正しい子育ての方法や正しい家庭の作り方について深く知れば知るほど、無能な父親や母親を嫌いに思ったとしても、それはむしろ当然であることも分かるだろう。

最後に、そんな親たちと同居を強いられている場合の対処法に少し触れておこうと思う。どんなに父親や母親が嫌いであっても、やはりあなたが経済的に彼らに依存している以上あなたは彼らと一緒に生活しないといけない。

そんな場合、ストレスを減らすために何ができるか、無能な親がふっかけてくる悪態をできるだけ回避するために何ができるか、「親がうざい」というやり場のない気持ちにどう対処できるか、その具体的な方法や対策についても少し考察しておこうと思う。

すぐにでも一人暮らしができればそれが一番なのだが、そのお金を用意するには多少の時間がかかるだろうし、そもそも色々なしがらみがあってやむを得ず親と同居している場合だってあるだろう。そんな場合に何ができるか、どのような対策があるかについて確認しておくことはあなたの役に立つと思う。

ちなみに今回は「親がいるだけで感謝すべき」とか「親に食べさせてもらってるだけで感謝すべき」といった時代錯誤も甚だしい感情論はあえて抜きにする。

「親がいるだけで感謝すべきではないか。昔はね・・」とか「親に食べさせてもらってるだけで感謝すべきではないか。昔はね・・」と説教をふっかけてくる人間たちだって中にはいるだろう。

しかし今回はもっとシビアな視点から現実論で考える。時代は変わったし時代は変わっているのである。「親がいるだけで感謝すべき」とか「親に食べさせてもらってるだけで感謝すべき」といった発言は、そもそも時代遅れである。「あなたはいつの時代を生きているんですか」と聞きたいし「そろそろ議論を発展させませんか」と問いたい。

食事を与えてさえいれば子供を殴ってもいいのだろうか。あるいは、子供に対してひどい言葉を浴びせてもいいのだろうか。そんなことはないはずである。

別に議論を発展させることに興味がない人間はそのままでいいと思う。議論を発展させることなく大正とか昭和とか、いわゆる食料の少ない戦後を懐かしんで「食べられるだけで感謝」とか「親がいるだけで感謝」といった感情論に走りたいのならそれでいいだろう。

しかしながら現代は戦後ではないのである。食べられるのが当たり前であり、親あるいは保護者がいるのが当たり前なのである。だから今回は「食べられるだけマシ」とか「親がいるだけで感謝」といった古めかしい視点はあえて脇に置いて、現代社会に即した考察、現代社会の発展を見据えた考察をしていこうと思う。

あるべき親の姿、あるべき家庭の姿に関してはバシバシと理想論を述べていく予定だし、未熟な親そして未熟な家庭に対してはズバズバと問題提起をしていく予定である。参考になれば嬉しい。

さて、理想的な親とはそもそもどのような親だろうか。彼らはどのような性格をしていて、何をモットーに子育てをしていて、何に気をつけながら家庭を維持管理するのだろうか。

そもそも、日本社会は国民たちに対して理想の親のイメージ、理想の親のあるべき姿を浸透させることができていない。親になる人たちは「理想の親」について説明されたガイドブックを受け取るわけでもないし、「理想の親」について教習所でしっかりと講習を受けるわけでもない。

だから「理想の親」と聞いても人それぞれ思い浮かべるイメージは違うだろうし、理想の親について100人が議論すれば100通りの違った意見が出てくる。

しかし、どの親も自分が思い描く「理想の親」こそが正しいと思っている。だから親になった大人たちは、自分たちが頭に思い描く「理想の親」のイメージこそ正しいと信じて、みんな自分勝手に思い思いの子育てをしているのである。結局のところ、日本の家庭教育は混乱しているのである。

だからこの記事では、日本中の親たちの中で混乱している「理想の親」のイメージをあえて統一、あえて1つにまとめてみることから始めようと思う。まずは理想の親のあるべき姿、その正解を示そうと思う。

「そんなことできるものか」と反論してくる人たちも一部いるかもしれない。「親のあり方に正解などない」とか「子供の数だけ理想の親の数があるのだ」とか「子供の性格によって親のあるべき姿も変わってくるのだ」とかいう、もっともらしい反論をしてくる人たちもいるだろう。しかしながら彼らの考えは甘い。

車のデザインは多様ではあるが、その基本的構造はある程度決まっているではないか。親も同じである。「親」あるいは「家庭」といった抽象的な概念でさえ、結局のところそれは私たち人間が作り出した人類社会を発展させるための法的な工夫なのであり、私たち人間が作り出した「工夫」である以上は「親」あるいは「家庭」にだって正しい構造はあるし、理想の形つまり正解は存在しているのである。

「親のあり方に正解などない」とか「子供の数だけ理想の親の数がある」とか言う人間たちは結局のところ、親や家庭のそもそもの活動原理にまで考えが至っていない人間、そのデザイン部分を論じているに過ぎない人間、その表面でしか物事を考えない人間たちであり、私がしようとしている考察はそのような表面的なものではない。

そもそも親はなぜ存在しているのか、そもそも家庭とは何なのか、その源流と活動原理にまでさかのぼった考察こそなされるべき考察なのであり、その考察の先にのみ「正解」が存在しているのである。

  1. 親の役割1:子に財産を相続させる
  2. 親の役割2:子に知恵を相続させる
  3. 親の役割3:子に正しい教育を施す
  4. 親がうざい時の6つの対策

親の役割1:子に財産を相続させる

人が生まれた瞬間から「死」に向かって歩き出すように、人は親になった瞬間から「相続」に向かって歩き出す。親の最後の仕事は「相続」であるし、親の役割は「相続」をもって終わる。これは古代から存在している根強い慣習であり、我が国でもそれは法律によって固く定められている。

親の最後の仕事が子供に財産を相続させること、さらに法律もこれを固く定めていることを考えると、親が取り組むべきたくさんの仕事の中でも子供に財産を相続させることは非常に重要な意味合いを持っている。

親の努力によって子供が相続する財産の分量が大きく変わってくることを考えれば、親が残す財産は多ければ多いほどいいだろうし、子供に相続させる財産が多ければ多いほど相続という仕事を果たす点においては、その親は優秀であるということになる。

逆に、子供の相続のために何も残さない親、あるいは借金を残してしまう親は相続という仕事を果たす点においては無能、あるいは落第ということになる。何も残さない親など子供にとっては意味のない存在だろうし、子供に借金を残す親に至ってはただただ迷惑な存在でしかないと思う。そのような親は「親」として失格だと言えよう。

そもそも今の日本には「子供に財産を相続させる」という発想や視点を全く持たずに子育てをしている親も多い。「財産を相続させるとロクな人間に育たない」と考えて、わざと財産を相続させない親だっているくらいだ。「そもそも相続させる財産が残らなかった」という親だって多いだろう。

子供に財産を相続させる視点のない子育ても一つの子育ての形ではあると思うが、相続の視点のない子育ては例えるならば荷台のないトラック、貨物を持たない貨物列車と同じであり、そもそも、それを走らせる醍醐味を十分に活用できていないという点において優秀とは言えない。

例えば、荷台のスペースを無駄にするようなトラック運転手はトラック運転手として失格だし、貨物をあえて連結させないで貨物列車を走らせてしまう鉄道職員も失格だと思う。トラックを走らせる以上は荷台スペースを十分に活用してたくさんの荷物を載せるべきだと思うし、せっかく貨物列車を走らせるのであればたくさんの貨物を連結させた方が賢いと思う。そうではないだろうか。

しかしながら、荷台のことを全く考えないでトラックを走らせている「親」は多いし、貨物の連結なんて考えないで列車を走らせている「親」も多い。つまり「相続」の視点のない子育てとは、荷台を無視してトラックを走らせることであり、貨物の連結を無視して貨物列車を走らせることなのである。

このような親は「親」として優秀であるとは言えず、むしろ自己本位かつ近視眼的であると言えるだろう。相続の視点を持たない親は「親」であることに関して「宝の持ち腐れ」を起こしている状態にあると言える。

例えば、相続の視点を持たないで子育てをすると以下のような弊害の発生も考えられる。

  1. 自分の子供や孫を、経済的に危険な状態にさらしている
  2. 国が定めている「倍々ゲーム」を放棄していて、もったいない

まず第一に、優秀な親とは自分の子供だけでなく、自分の孫たちの幸せを考える親であることに異論はないと思う。孫の孫たちの幸せまでも考えられる親なら文句なしだ。優秀な親は自分の後に続く世代、つまり孫たちまでもが幸せに暮らせるようにと長期的な計画を立てる。

子育ての視野に相続を入れない時点で、その親は自分の子供のことを考えていないだけでなく、自分の後に続く世代、つまり孫たちのことを考えていない。おそらく自分のこと、自分が高級車を乗り回すことや立派な家に住むことにしか興味がないのだろう。

例えば子供がリストラされてしまった場合、親に経済的な余裕があれば理想的ではないだろうか。例えば孫が不運にも大きな人身事故を起こしてしまった場合、その損害賠償を支払うだけの余裕がその一族にあれば理想的ではないだろうか。

事実、子供の成人に向けて子供名義で貯金をしていたり、孫たちの大学進学費のために貯金をしている優秀な親たちだって存在しているのだ。長期的な視点を持って子育てをしている親が存在している以上、長期的な視点を持たずに子育てをしている親は「将来に備える」という点においては無能だとしか言いようがない。

第二に、優秀な親とは自分の子供たちのために、そして自分の孫たちのために国が定めている「倍々ゲーム」に参加している親である。国が定めている「倍々ゲーム」とは、一族みんなで協力して「一族の財産」を雪だるま方式に増やしていきましょう、という法的な枠組みのことである。

分かりやすく例えるなら、それは世代を超えて「財産」というバトンがリレーされるマラソン競技みたいなものだろう。ルールは簡単だ。「人生」というトラックを一周走る間に、あなたは自分の「財産」というバトンをレベルアップさせないといけない。

バトンは次の走者、つまりあなたの子供にレベルアップされた状態のまま引き継がれるので、あなたはできるだけ自分のバトンをレベルアップしてから次の走者に渡すのが望ましい。次の走者、つまりあなたの子供もあなたがしたのと同じようにトラックを一周走っている間にバトンのレベルアップに取り組むことになる。次の次の走者も同様だ。

バトンのレベルは必ずそのままの状態で次の走者に引き継がれることがルールなのだから、あなたのチームはみんなで協力しながらバトンのレベルを雪だるま方式で膨らませていくことになる。

「財産」というバトンをレベルアップさせていくのが上手なチームは次の走者にバトンが渡るたびにその財産も大きくなっていくが、財産をレベルアップさせていくのが下手なチームは次の走者にバトンが渡るたびに、その財産は減ったり、あるいは無くなったりする。中には、前の走者が努力して積み上げてきたレベルをゼロに戻してしまう迷惑な走者だっているだろう。

どうしようもないのは、バトンが新しい走者に引き継がれるたびにバトンのレベルがゼロに戻ってしまっているチームだ。「バトンの状態は次の走者に必ず引き継がれる」というルールを全く有効活用できていない。

このようなわけだから、バトンをレベルアップさせていくのが上手なチームと下手なチームとの格差はどんどん広がっていく。ちなみに、あなたはどちらのチームに所属して走りたいと思うだろうか。答えるまでもなく、バトンを上手にレベルアップさせているチームに違いない。

あまり目立たないかもしれないが、実はこの「倍々ゲーム」は私たちの住む日本においても静かに、そして盛大に開催されており、端的に言えばそれはだいたい江戸時代ごろから開催されていている。そして、各チームのバトンレベルの格差は深刻なほどに広がってしまっているようである。それも当然だろう。この「倍々ゲーム」は実に400年以上もの歴史があるのだから。

400年以上もの年月をかけて着実にレベルアップさせてきたチームのバトンレベルは文字どおり「莫大」になっている。一方で、走者が変わるたびにバトンレベルをゼロに戻してしまっているチームのバトンレベルは悲惨である。長い年月をかけて貯蓄に励んできたチームと、毎回ゼロに戻ってしまっているチームとの間に見られる格差は悲劇的である。

ちなみに、江戸時代の初期から着実に財産をレベルアップさせてきた優秀な一族の中に「住友家」がいる。住友家は日本の三大財閥の中でも最も古い歴史を誇る一族であるが、この住友家は間違いなく日本で行われている「倍々ゲーム」の走者の中では超優秀の部類だろう。

三井住友銀行、住友化学、住友商事、日本電気(NEC)を筆頭に、その影響力は、旭化成、アサヒビール、朝日新聞、鹿島建設、京王電鉄、大正製薬、東映、パナソニック、マツダ、ブリジストンといった大企業にまでも及んでいるのだから、住友家が一族総出で築き上げてきた「財産」バトンは文字どおり莫大であることは想像にたやすい。

住友家の他にも三井家、岩崎家といった名家が我が国の「倍々ゲーム」の首位を現在も独走中であるが、ここまで超優秀でなくとも、走者が変わるごとに着実に一族の財産を増やしてきた優秀な一族だって多数存在している。

もちろん、それら一族間に見られる積み上げてきた財産の額には大小の差はあるだろうが、彼らのように財産を着実に積み上げてきた優秀な一族には例外なく絶対的に共通している特徴ある。その特徴とは、国の定める「相続」というルールを最大限に有効活用している点である。

国が定める相続というルールを上手に活用できている一族は、その経済的な側面においては大きな発展を遂げ、その資産総額においても「億」や「兆」といったレベルに達している。一方で、国が定める相続というルールを上手に活用できていない一族は、その経済的な側面において全く発展できておらず、その資産総額は世代交代の度にゼロに戻っているか、悪い場合にはマイナスである。

長期的な視点を持って「倍々ゲーム」に取り組んでいる一族と、近視眼的な視点しか持たず「倍々ゲーム」を放棄している一族との経済格差は今後も広がっていくだろう。

そもそも、一族みんなで財産を積み上げていくことを奨励しているは国である。なぜなら、一族の財産が増えるということは国の財産が増えるということだからだ。国家とは一族の集合に過ぎないことを考えれば、一族の発展が国家の発展に直結している事は容易に想像できるだろう。

だから国だって財産を増やそうとしている一族を相続という法的な枠組みによって固く保護しているし、あらゆる法的支援まで整備してその「倍々ゲーム」を援助しているわけである。しかしながら「倍々ゲーム」を放棄することによって国が提供している絶好のチャンスをみすみす逃している親は多い。

間違ってはいけない。本来、親が子供のために財産を蓄えるのは国によって奨励されていること、ごく自然なことなのである。子供が親のお金を使うことを渋る人間、子供が一族の財産を利用することに否定的な人間が一定数ほど見受けられるが、実は彼らの考えの方が不自然なのである。

しかしながら、そのような人間たちは親のお金を使う若者のことをあたかも悪者であるかのように「親のスネをかじるな」とか「親の財産を当てにするな」といって罵倒したりする。しかしながら、そういった発言をする人間たちの方こそ、実のところ考えが甘く、国が定めるところの法的な枠組みやその意向が見えていない「子供」なのである。

そもそも、一族の財産とはある程度「かじられる」ことが普通なのだから、問題はどちらかというと財産を「かじる」側の人間ではなく財産を「かじられる」ことに備えていない側、つまり親の側にあるのではないだろうか。「財産」とはむしろ一族に消費されることを想定された上で増やされるべきもの、本来は一族の消費に耐えられるように貯蓄されているべきものである。

実際、「親の財産を当てにする」ことが実践さてこなかったなら日本社会の発展を引っ張ってきた住友家、三井家、岩崎家といった名家は存在しえないし、「先代の積み重ねの上に立脚する」という発想がなかったとすれば、いかにして国家は発展するのだろうか。

このような観点から言えば、親の財産を「当てにする」ことはむしろ奨励されるべきなのであり、親の側も「当てにされる」ことを想定した上で一族の財産の蓄積に励むべきなのである。

つまり「理想的な親」とは、我が国が定める「相続」というルールを有効活用する親、そのようにして自分の家族の幸せだけにとどまらず、一族の発展、ひいては国家の発展にまで貢献する親だと言えよう。

注釈
もちろん、上に書いたことは「親の財産を浪費してもよい」という意味でもないし「親のお金ならキャバクラやパチスロで無駄遣いしてもよい」という意味でもない。「いつまでも定職につかずブラブラしていることが正しい」と言っているわけでもないので履き違えないよう注意して欲しい。そうではなくて「相続」を有効活用する親が優秀であり理想的である、というのがその主な趣旨である。

しかしながら、人生を模索途中の若者たち、いわゆるニートや引きこもりの若者たちのことを「親のスネをかじっている」とか「親の財産を食いつぶしている」とか言って見下す人間はやはり間違っており、その視野はあまりに狭くその思考はあまりに近視眼的である。何年かかろうとも子供たちが目標に到達するまで経済的に支援することは親としての当然の義務であるし、むしろ「一族の財産」とはそのような目的のために貯蓄されているはずである。そうではないだろうか。

さて、「一族の財産」が自分の後の世代にわたって有効に活用されるためには自分の子供、ひいては自分の孫たちを正しく教育することは必須となるだろう。財産がたくさんあっても正しい教育を施さなければ、あなたの子供は立派な人間には育たない。実のところ、理想的な親は子供に財産を相続させることと同じくらい知恵を相続させること、つまり子供の人間性を育むことにも熱心である。この点については次のセクションで考察する。

親の役割2:子に知恵を相続させる

子供にあふれるほどの財産を相続させる親と言えども、その親は半人前である。なぜなら、親が子供に相続させるべき財産とはお金だけではないからである。

親が子供に相続させるべきもう一つの財産、それは「知恵」である。十分なお金と一緒に十分な「知恵」を子供に相続させる親こそ、一人前の親、文句なしに理想的な親だと言えるだろう。

そもそも、子供にとって親とは社会というジャングルの案内人みたいなものである。私たちが産み落とされる場所とは何もかもが完璧な楽園などではなく、まだまだ未熟で危険がたくさん潜んでいる社会、未開発なジャングルのような社会である。

そんな危険なジャングルを先頭立って案内してくれる案内人が親なのだ。親とは本来、あらゆる危険を教えてくれる頼もしいガイド、安全な道を指し示してくれる社会の先輩だと言えるだろう。

子供に先立って20年前あるいは30年も前から社会のジャングルで生活していることを考えれば、親は社会について何でも知っていることが期待されて当然だし、進むことのできる安全な道を指し示すことができて当然である。20年前あるいは30年も前から社会で生活しているのに社会について無知だとすれば、それこそ、その親は無能だとしか言いようがない。

例えば、あなたが危険いっぱいのジャングルを冒険するとして、安全のために案内人をつける場面を想像して欲しい。あなたは期待するに違いない。「この案内人はこのジャングルで30年以上も生活しているのだから、食べてはいけない植物にも詳しいだろうし、安全な道だって教えてくれるに違いない」。こうしてあなたは、その案内人に案内されるがままにジャングルの中を進んでいくことになる。

最初の頃は何も疑わないあなたでも、冒険を進めていくと徐々に「なんかアテにならないな」とか「この案内人は本当に大丈夫なのか」と不安になり始める。

なぜなら、案内人が勧める植物を食べるたびにあなたは下痢になるし、案内人と一緒に進む道の先々でヘビに襲われたり、落とし穴に落ちたりしているからだ。あなたの手足は傷だらけだし体のあざも多くなってしまった。

不安なあなたは度々その案内人に苦情を訴えるだろう。「あなたが勧めた植物を食べて下痢になったんですけど」あるいは「あなたのせいで手足が傷だらけなんですけど」と。

しかし、あなたの苦情を気に留める様子もなく、その案内人はあなたの先導を続けるのだ。彼は言う「私はこのジャングルに詳しいのだから口答えするな」とか「何も分かってないくせに偉そうにするな」と。黙って聞いているあなたの手足からは血がダラダラと流れている。

さて、あなたはこの案内人のことをどう思うだろうか。「その案内人の方が正しい。不安に思ってもその案内人についていくべきだ」と考えるだろうか。そんなことはないはずだ。その案内人がどんなに主張しようが、あなたの体が傷つき血がダラダラと流れている以上、その案内人は「案内人」としては無能であるし「案内人」としては失格である。そうではないだろうか。

残念ながら、現実の社会でも全く同じことが起きている。子供よりもはるかに社会経験が長いはずなのに、子供たちに無能な先導を続ける親たちは多い。

彼らは自分の子供たちに「なにか有益なこと」を教えることもしないし「なにか役に立つこと」を教えることもしない。つまり、自分の子供に知恵を相続させることをしないのだ。おそらく、そういったことに興味がない、あるいは、そういったことまで能力が及ばないのだろう。

スーパーのお菓子売り場やデパートのおもちゃ売り場に行けば、そんな無能な親たちが容易に発見できるだろう。大声を出して泣き叫んでいる子供の方に注目がいきがちであるが、このような場面では決まって親の方も大声を出して叫んでいる。

「言うこと聞かないと何も買ってやらん」とか「言うこと聞かないと叩くよ」と子供と同じくらいうるさい声、あるいは子供よりもうるさい声で叫んでいたりする。子供はワンワン泣いている。親もギャーギャーわめいている。

彼らには計画的に教え諭すという視点がない。場当たり的にわめくだけである。彼らには知恵を相続させるという発想がない。子供の泣き声に「ただ反応してるだけ」である。実に無能な親である。

例えば、親のせいで太ってしまった人たちのことを考えて欲しい。太っている人の中には親の無能な先導のせいで太ってしまった人だって多いだろう。残念ではあるが、その人の親もやはり食の先導においては無計画かつ場当たり的であり無能だったのである。

自分の子供を太らせないために彼らは本来、以下のような知恵を知っているべきだったし、以下のような知恵を自分の子供に相続させておくべきだった。

肥満にならないために

人が太る原因は単純だ。「食べ過ぎ」である。子供が太ってしまう原因も全く同じで、親が子供に食べ物を与え過ぎるからである。

食べ物を与え過ぎる親は、大体にして食に関して無知である場合が多い。「すくすく成長して欲しいから」とか「子どもが欲しがるから」程度の軽薄な理由で子どもが求めるだけの食べ物やお菓子をどんどん与える。親自身が肥満であって、ただ単に自分の過食に子供を付き合わせている場合も多い。

もちろん、人は食べ物から活動エネルギーを取り出しているので、適切な量の栄養素を体の中に入れてあげることは非常に大切なこと、育ち盛りの子供に至っては必須事項だと言えよう。

具体的に言えば、私たち人間は食べ物から栄養素を取り出すために食事をするのであり、栄養素とは例えばタンパク質(アミノ酸)、糖質(ブドウ糖)、脂質(脂肪酸)といったものが挙げられる。早い話、こういった栄養素からアデノシン三リン酸を生成し、このアデノシン三リン酸を消費しながら生命を維持しているのである。

このアデノシン三リン酸は予備として貯めこむことができないしストックが効かない。食事から取り出された栄養素は必要な分だけアデノシン三リン酸に変換され、余った栄養素はすべて「脂肪」に変換されてしまう。だから脂肪が増えて子供が太ってきた場合、それは単純に食事の与え過ぎ、単なる栄養過多の状態になっているのであり親はできるだけ早くその子の毎日の食事内容を調整すべきである。

ちなみに、具体的にどのように調整するかに関しては慎重な検討がなされるべきであるが、基本的には1日の全ての食事量において野菜や果物を7割、その他の凝縮食品(肉・魚・米・パンなど)が3割程度になるような調整がなされると良いと思う。「野菜や果物をたくさん食べましょう」という勧めに対して異議を唱える人は少ないと思う。

さて、子供が太れば太るほど子供に与えるダメージは大きくなる。成長期だからと言って子供に食事を与え過ぎる親もいるがこれでは逆効果である。なぜなら、成長期に食事を与え過ぎるとその分その子供の脂肪細胞はどんどん増えてしまう結果となり、脂肪細胞が増えてしまうとそれだけ太りやすい体質になるからだ。

親のせいで太ってしまった子供は大人になってからも苦労する。子供の時だって「デブ」とか「豚」とか馬鹿にされて苦労するだろうが、本格的な苦労はやはり大人になってから始まると言えるだろう。

太っている人に対する社会の風当たりは冷たい。ただ太っているせいで婚期を逃す女性だって多いだろうし、ただ太っているせいで職場内でイジメられたり昇進や昇給から外されたりする男性も多いだろう。

内臓脂肪が多すぎるとただそれだけメタボリック症候群といった生活習慣病にかかりやすくなること、さらには医療費もかさみ死亡リスクだって跳ね上がってしまうことを考えれば「太っていること」の代償はあまりにも大きすぎる。ではこれは誰の責任だろうか。親元を離れる時点でその子が太っていたのであれば、それは無知な親の責任である。

子供は社会の先輩、社会の案内人に頼り切って育つのだ。子供に先立って社会で生活してきた以上は正しく子供を教育すべきであるし、子供の先導を引き受けた以上は社会の案内人としてしっかりと子供を先導すべきである。

ちなみに、すでに太りすぎで困っている子供たちに対して親が相続させるべき知恵もあるにはある。そもそも子供を太らせないことが最善なのだが、万が一、親のせいで太ってしまった場合にその人は何ができるだろうか。この点について少し論じておこう。

痩せたい場合、まず第一になされるべきことは「食べる量を減らすこと」である。脂肪で大きくなった腹とは結局のところ食べ過ぎで大きくなった胃なのであり、食べる量を減らして胃を小さくすれば、それだけ体もスリムになる。

まずは「1日2食」にすればいいと思う。そもそも1日3食(プラスお菓子やデザート)は完全に食べ過ぎだし、食事が原因で細胞を守るヒストン膜が弱くなること、さらに活性酸素の攻撃を受け細胞の寿命が縮んでしまうことを考えても「食べること」それ自体が健康や不老長寿の邪魔をしていると言える。

だから、私たちはそもそも食べ過ぎてはいけないし、このことに気付いている優秀な「案内人」たちは自分の子供にそのような指導を与えている。現に、食事制限をして食べる量を通常の6割にまで減らしたマウスは、通常通りの食事量を食べ続けた他のマウスと比較して2倍も長生きしたという有名な実験結果もある。

1日1食を実践している医者だって多いし、週1度の断食まで実践している医者だっているくらいだ。「腹8分目」というかなり古い言葉があるが、現代栄養学の観点から述べるとすれば「腹6分目」が正解である。

ちなみに、「食べる量は絶対に減らしたくない」という人だっているだろう。そもそも食べることが大好きで、食べることが生きがいになっている人にとって食事制限のアプローチは現実的ではないと思う。

このような人たちには「食事内容の調整」によるアプローチをお勧めする。先ほど少しばかり言及したことであるが、1日の全ての食事量において野菜や果物を7割、その他の凝縮食品(肉・魚・米・パンなど)を3割くらいに調整するのである。

午前中に色とりどりの生の果物を好きなだけ食べ、お昼には色とりどりの生の野菜を好きなだけ食べる。夜は少しばかりの妥協ではあるが今まで通りの食事をする。このようにして野菜や果物の摂取量を7割に、その他の凝縮食品(肉・魚・米・パンなど)を3割程度にできれば、あなたは1ヶ月ほどで痩せられるだろう。

このようなことを言うと決まって「肉や魚からタンパク質や脂質を取らないと栄養不足になるのではないか」とか「果物を食べ過ぎるのは糖分の取りすぎで逆効果になるのではないか」と凄まじい勢いで反論をしてくる人たちも出てきそうだが、そのような人たちに対してはただ一言「私は知りません」とだけ答えておこう。

誤解しないで頂きたいのだが、私はアメリカの栄養学の権威者の言葉を引用して「ダイエットにはこういった方法もあるみたいですよ」と情報提供をしているだけに過ぎない。なぜアメリカなのかと言えば、アメリカは日本の10年は先を走っているからである。

いずれにせよ、この点はできるだけ多くの人たちが把握しておくべき現代的な知識だと思うので、上記の文章の根拠となっている書籍を紹介しておこうと思う。食事制限をせずに痩せたい人、アメリカで実施されている最先端の食生活に興味がある人は参考にして欲しい。-「フィット・フォー・ライフ(グスコー出版)

さて話を戻そう。痩せたい場合、食事調整の次になされるべきは「正しい運動」である。正しい運動があるということは当然のことながら間違った運動もある。残念ながら間違った運動をしている人は、その運動方法は効率的ではないのでなかなか痩せない。あなたは効率的な運動と効率的ではない運動の違いを知っているだろうか。

効率的ではない運動とは有酸素運動(ジョギングなど大きな呼吸が伴う運動)のみによって行われてしまう運動、あるいは有酸素運動のあとに無酸素運動(筋トレなど息を止めて気張る運動)が行われてしまう運動である。

ダイエットとはそもそも運動によって脂肪を燃やすことを目指して行われる運動のことである。ダイエットの際、実際に燃えることになるのは「脂肪」ではなくて「遊離脂肪酸」と呼ばれる物質なので、まずは脂肪を遊離脂肪酸に分解することが必須となる。

端的に言えば、脂肪を遊離脂肪酸に分解させるためには必ず成長ホルモンが必要であり、この成長ホルモンを引き出すためにまずは無酸素運動が行われるべきなのである。

流れとしては、無酸素運動で筋肉が壊れることによって(特に下半身の筋肉を壊すことによって)脳の脳下垂体前葉という部分から成長ホルモンが分泌される。分泌された成長ホルモンによって脂肪は遊離脂肪酸に分解され、分解された遊離脂肪酸は有酸素運動で大量に体内に取り込まれる酸素と結合することによって燃焼し、こうして脂肪が消失する。これが脂肪を燃焼させるための大まかな順序となる。

このようなわけで、あなたがダイエットのために運動をするのであれば、必ず最初に無酸素運動(パワートレーニングなど息を止めて気張る運動)を30分から40分程度行ったあとに有酸素運動(ジョギングなど大きな呼吸が伴う運動)を行わないといけない。

そうしないと脂肪は効率的に遊離脂肪酸に分解されないし、脂肪が遊離脂肪酸に分解されなかったら遊離脂肪酸が燃えることもない。ちなみに遊離脂肪酸の燃焼には十分な量の酸素が取り込まれればそれだけでいいので、有酸素運動の際には自分を追い込むほどの苦しい運動は必要ない。ただし、下半身の筋肉が壊れる程度の運動、次の日に筋肉痛になる程度の無酸素運動は必須である。

以上が、肥満にならないために親が子に相続させるべき知恵、肥満になってしまった人が本来は親から相続すべき知恵である。過食のせいで太っている人は参考にして欲しい。

肥満にならないための知恵の他にも、親が子供に相続させておくべきであろう知恵はまだまだたくさんある。

例えば、親のせいで身長が伸びなかった人たちのことを考えて欲しい。低身長に悩んでいる人たちの中には親の無能な先導のせいで身長が伸びなかった人だって多いだろう。残念ではあるが、その人の親もやはり強靭な体の発育の先導においては無計画かつ場当たり的であり無能だったのである。

子供の発育のため、その子の体を強靭で魅力的にするために親は本来、以下のような知恵を知っているべきだったし、以下のような知恵を自分の子供に相続させておくべきだった。

強靭な体の発育のために

身長が伸びる仕組みはよく周知されている。それは「成長ホルモンが分泌されるから」である。成長ホルモンが分泌されれば分泌されるほど骨や筋肉の細胞数が増加し、このことが身長を伸ばしたり筋肉を増強したりすることに繋がっている。

女性であれば小学校から中学校にかけて、男性であれば中学校から高校にかけての成長期の間に分泌される成長ホルモンが特に骨を伸ばすことに使われたり筋肉を増強することに使われたりする。成長期の間に成長ホルモンが分泌されればされるほどその子の身長は伸びる結果となり、成長期という体を作るのに最適な時期に強靭な体が作られる結果となる。

このような理由から、子供の身長を伸ばしたいと考える親はその子の成長期の間に成長ホルモンができる限り分泌される環境を整えてあげることが必須となるわけである。では具体的にはどのような環境がその子の成長ホルモンの最大限の分泌につながるのだろうか。

成長ホルモンの分泌を最大限にするため、まずなされるべきことは「子供を運動部に入れる」ことだろう。もちろん文化部に入れても、成長期にある子供の体からはたくさんの成長ホルモンが分泌されているので身長が伸びないことはないが、子供の身長を最大限に伸ばしてやりたいと考えるのであればやはり運動部に入れることは無難な選択となる。

上の「肥満にならないために」でも取り上げたが、特に下半身で作られる新しい筋肉からは成長ホルモンが多量に分泌されることになるので、特に下半身の筋肉をよく使う運動をさせる部活動を選ばせれば子供の身長の大幅な伸びが期待される。

この点、バスケットボールは間違いなく下半身の筋肉をよく使うスポーツである。高い場所に設置されているゴールに向かってスクワットにも似た激しい屈伸運動を何度も繰り返すことを考えれば、バスケットボールはとても理想的なスポーツ、子どもの成長ホルモンを最大限に引き出す理想的な運動だと言えよう。実際、バスケットボール部に入部する子供たちは高身長になる傾向が強いが、これも下半身の筋肉を鍛えることによって多量の成長ホルモンが分泌されることと関係が深い。

さて、下半身の筋肉を鍛えることも大切であるが、十分な睡眠をとることも成長ホルモンの分泌のためには必須である。「寝る子は育つ」という言葉があるように、成長ホルモンの分泌には十分な睡眠が不可欠である。特に深夜22時から翌日の2時の間、いわゆる「睡眠のゴールデンタイム」と呼ばれる時間帯に熟睡していること、あるいは入眠後の3~4時間の熟睡のため寝る前に入浴することが望ましいと言われたりする。

いずれにせよ、運動部に入っている子供たち、放課後の激しい運動で疲れきって家に帰ってくる子供たちはこの点については特に問題ないと思う。激しい運動で疲れきっているだろうから彼らは意識しなくても22時頃には眠くなるだろうし、そうなれば理想的な生活リズムも自然と形成されるだろう。入部している部活動が朝練などを実施していれば、なおさらその子の生活リズムは身長を伸ばす上で理想的になることが期待できる。

問題は文化部に入っている子供たちや、運動せずに学校から帰ってくる子供たち、夕方に睡眠なんかを取ってしまう子供たちだろう。彼らは成長ホルモンの分泌に有利となる運動をしていない上に睡眠時の成長ホルモン分泌が最も多くなると言われる深夜にゲームをしたり漫画を読んだりと夜更かしをしてしまう生活リズムを形成しやすい。夕方に寝てしまっている場合は尚更そうだろう。

運動による筋肉の増強が望めない上にゴールデンタイムに眠らず夜更かしをしてしまう環境。このような環境では成長ホルモン分泌の最大化は望めず、それは二重に不利な環境であるので、このような環境に置かれてしまう子供の身長は伸び悩む可能性が高い。

では、成長期の子供の生活を正しく管理せず、二重に不利な環境を子供に許してしまうのは誰だろうか。親である。すべてではないだろうが、その大きな責任は親にあると言える。親は本来、前述に挙げたような知恵を知った上で子育てに取り組むべきだし、子供の身体の発育に関しても出来るだけ有利な環境を整えてあげることが期待されて当然である。

「見た目が8割」という言葉に象徴されるように、社会ではその人の内面的資質が見抜かれることよりも外見的資質をもって内面的資質とする傾向が強い。このことを考えれば、子供の見た目を最大限に整えてあげることは社会の先輩でもある親の大切な仕事の一つだと言える。そうではないだろうか。

こんなことを書くと、「そんなこと知るか」とか「そこまで面倒見られない」と言って怒り出す親が出てくるかもしれないが、そのような発言をする親は結局のところ案内人としての力不足を言い訳しているのであって、子供の発育の先導に限って言えば無計画かつ場当たり的であり優秀とは言えない。

ちなみに、低身長で悩んでいる人たちに対して親が相続させるべき知恵もあるにはある。そもそも子供の体が強靭かつ不満なく育つことが最善なのだが、万が一、親のせいで自分の身長に不満が残ってしまった場合にその人は何ができるか、どのように考えることができるか少しばかり私の意見を述べておこうと思う。

おそらく、低身長で悩んでいる人たちの多くは男性だと思う。身長とはいわゆる異性へのアピールポイントであるし「三高」という言葉に代表されるように高身長の男性は女性にモテる。これは間違いない。

高身長の男性が女性たちの視線を独占しがちである社会の風潮もどうかと思うが、女性だって男性と同じ理想とこだわりを持つ人間である限りは、男性に高身長や包容力を求めてしまう女性が多く存在するのは当然であり、それは「しょうがない」としか言いようがない。このような現状を踏まえれば身長が低い男性は確かに不利であるし、低い身長に大きなコンプレックスを感じてしまう男性が大勢いるのは当然だと思う。

しかしながら、自分の見た目にコンプレックスを感じてしまう男性たちは「見える世界に囚われ過ぎている」という事実もあるにはある。「気にし過ぎだから気にするな」と言っているのではない。「別の世界観もありますよ」と言っているのである。

私の提案はこうだ。「世界観」を変えてみるのはいかがだろうか。多くの女性たちにモテること、多くの女性たちと遊びまくることが理想なのではなくて、ひとりの女性と出会うこと、ひとりの女性に愛されること、ひとりの女性を生涯愛し続けることこそが理想なのである、という視点で世界を見るのである。

たった一人でいい。長い人生でたった一人と出会い、たった一人を愛し、たった一人から愛されれば、それこそが恋愛の理想だと考えれば世界の風景は一変すると思う。たとえ自分の外見に自信がなかったとしても、一人くらいであれば20年であれ30年であれ、人生という長い時間をかければ出会えない数ではないだろう。

ありがたいことに、女性の中には女神のような心を持つ女性がいるのも事実で、外見に一切とらわれない女性、ただ自分だけを見つめてくれる優しい男性を求める誠実な女性も存在している。社会の風潮に逆らっている女性たち、社会とは少し外れたところにいる女性たちだって多いことを忘れてはいけない。

婚活パーティーや街コンなど、出会いの場を積極的に活用する工夫は必要になるだろうが、誠実な女性をひとり見つけることを今後の楽しみとすれば良いと思う。そのひとりに出会うこと、出会ったならそのひとりを愛し続け、死ぬまでそのひとりを見つめて生きること、このことを恋愛の理想と定義すれば、あなたの外見的な不満などさして大きな問題ではなくなるだろう。

さて、身長や外見に関する知恵の他にも、親が子供に相続させておくべきであろう知恵はまだまだたくさんある。

例えば、親のせいで成績が悪かった人たちのことを考えて欲しい。成績が悪かった人たちの中には親の無能な先導のせいで成績が悪かった人だって多いだろう。残念ではあるが、その人の親もやはり子供の勉強の先導においては無計画かつ場当たり的であり無能だったのである。

子供の成績を上げるため、その子がテストで良い点を取るために親たちは本来、以下のような知恵を知っているべきだったし、以下のような知恵を自分の子供に相続させておくべきだった。

子供の成績を上げるために

子供の成績が良くなる理由は単純だ。それは子供がテストの出題内容を暗記しているからである。日本の学校教育でなされるテストはそのほとんどが教科書からの出題であり、これはつまり教科書の内容さえ暗記していればテストで高得点を取るのは非常に簡単であることを意味している。

テストの出題範囲に関しても、それはだいぶ前からプリントで告知されていたり口頭で伝えられたりしていて分かっている場合がほとんどだろう。つまり、生徒たちは事前に分かっている出題範囲を「ただ暗記」していれば、ただそれだけでいい点数が取れるのだ。

教師たちが自分の実績のためにテストを簡単に作りがちであるという教師側の事情を考えても、出題範囲をただ暗記さえしていればテストで高得点が取れるであろうことは想像にたやすい。ただ暗記さえしていれば良い。

教科書の内容をただ暗記さえしていればテストでいい点が取れる、これが日本の学校教育で実施されているテストの本質であり、日本全国どの学校で行われるテストにも共通して見られる貧しい特徴なのである。このように、日本の学校でなされるテストとは呆れるほどに単純なのだ。

となると、子供の成績を上げたいと考える親が子供にさせるべきことも自ずと決まってくるのではないだろうか。別に難しい話ではないだろう。「教科書を暗記させる」ただこれだけである。呆れるほどに単純である。

問題はどのように教科書を暗記させるかであるが、暗記の方法について知ってさえいればこれも別に難しいことではない。あなたはご存知だろうか。例えば、子供に教科書を丸暗記させたいと考える場合、あなたならどのような方法で子供に教科書を丸暗記させるだろうか。

人間が情報を暗記する方法は一つしかない。「繰り返し」である。人間であるならば情報を暗記するためには絶対に「繰り返し」が必要であり、人間である限り情報を暗記するためには絶対に「繰り返し」がなされなければならない。これは人間の脳の構造上、絶対的な真理であり例外は存在しない。

「天才」と呼ばれる人間だろうが「超人」と呼ばれる人間だろうが、暗記に繰り返しが不可欠であることはみんな一緒であり、彼らが「天才」とか「超人」とか呼ばれているのはむしろ、ただ単純に繰り返すスピードが他の人よりも早いだけである。あるいは他の人よりも効率的に繰り返している、というちょっとした工夫が表面に現れているだけに過ぎない。例えば彼らは「エビングハウスの忘却曲線」なんかを参考にする。

このような意味で言えば、この世界に物事を一発で暗記してしまうような天才や超人などはほとんど存在しないし、クラスで「天才」と呼ばれている生徒や、全国模試で上位をとるような「頭がいい人」と呼ばれている子供たちだってただ単純に繰り返しという作業を人一倍こなしているだけに過ぎない。

このような暗記の仕組みが分かっていない親は、自分の子供に対して何をしていいか分からない。できることといえば「勉強しなさい」と怒鳴ることぐらいだろう。だから多くの親たちは自分が唯一できること、つまり「勉強しなさい」と子供に怒鳴ることだけ、ただそれだけをひたすら繰り返す。

今日もきっと多くの親たちが、自分の子供に口うるさく「勉強しなさい勉強しなさい」と怒鳴っているのだろう。それしかできないのだから、しょうがない。

彼らはまるでクギを打つことしか知らない大工である。クギを打つことしか知らない大工は、ただそれだけしか知らないので一日中ただクギだけを打っている。トントン、トントン、ひたすら釘を打っている。その大工は優秀とは言えない。親も同じである。「勉強しなさい」としか言えない親は子供の勉強の先導に限って言えば、非常に無計画かつワンパターンあり無能なのである。

では本来、子供の暗記のために親は何ができるだろうか。子供に教科書を暗記させるために親はどのようにして子供を助けることができるだろうか。日本で実施されている学校教育において子供の成績を上げることを願うとすれば、例えば親は次のようにして子供の勉強を先導できると思う。

日本の学校教育においては、前もって予習させる意味も込め教科書は新学期の前から入手できる場合が多い。おそらく、新学期が始まる前に学校が指定する書店に行って購入する場合がほとんどだと思う。これはつまり、新学期に入る前から教科書の暗記に取り組むことができる、ということである。

成績を上げるため、テストで良い点を取るためには教科書を丸暗記すれば良い。ゆえに親が子供の勉強を先導するにあたっても、その目標は唯一「教科書を丸暗記させること」となる。

暗記の仕組みとは「できる限りたくさん繰り返すこと」ただそれだけに尽きるので、教科書を暗記するためにもその目標はできるだけ早く、そしてできるだけたくさん教科書を繰り返すこと、ただそれだけに尽きる。だからその勉強方針も唯一「教科書をたくさん繰り返させること」になるだろう。

まずは、1ヶ月に1冊のペースで教科書を消化することを目標に子供の学習計画を立てれば良いと思う。学校がダラダラと1年かけて終わらせるところを1ヶ月で終わらせてしまうのである。

たくさん繰り返されることが大前提となるので、教科書の1回目の繰り返しでは深く理解させることにこだわる必要はない。その全体像をぼんやりと掴んでもらうこと、これを目標とすれば良いだろう。だから解けない問題があったり理解できない箇所があっても、あまり気にせずに教科書を読み進めて良い。

1回目の繰り返しが終わったら、すぐに教科書の2回目の繰り返しに移る。また教科書を1ページ目から始めるのである。間違いなく2回目の繰り返しにおいては1回目の時よりも理解が進むだろう。

誰だって1回で教科書を理解することなどできないが2回の繰り返しがあれば理解が進むことは想像にたやすい。このようにして教科書を10回、いや20回は繰り返すのである。繰り返せる回数が増えるので繰り返しのペースは早ければ早いほど良い。

イメージとしては、焙煎されたコーヒー豆をコーヒーミルでガリガリと挽く感じだろう。コーヒーミルのハンドルを1回だけ回しても全てのコーヒー豆は粉砕されない。されるわけがない。全てのコーヒー豆を粉砕するためにはガリガリ、ガリガリとコーヒーミルのハンドルを何周も何周も粘り強く回さないといけない。

子供の勉強についても同じである。10回も20回も教科書を繰り返していれば、どんなに頭の悪い子供だって教科書の内容を暗記してしまうだろうし、50回も100回も繰り返していれば、どんなに頭の悪い子供だって「天才」になるのである。

優秀な親は子供にこれをやらせている。早い親だと小学校に入学する前から小学校の教育内容に取り組ませているし、中学校に入学する前から中学校の教育内容に取り組ませている。子供が高校に入る頃にはすでに大学入試の過去問に取り組ませているのだ。一般的な家庭との差が広がるのは当然ではないだろうか。学習塾だって同じである。学習塾でも子供たちに取り組ませているのは結局のところ「繰り返し」なのである。

たくさん繰り返した子供は教科書の内容を丸暗記しておりテストで高得点を取ってくる。ほとんど繰り返していない子供は教科書の内容を暗記できていないのでテストの解答欄が埋まらない。日本の学校教育における「学力」とは所詮この程度の差なのであり「偏差値」とはただ単純に教科書やテキストを繰り返した回数の格差を表しているに過ぎない。

ちなみに学校でなされる授業のペースはその学校が公立か私立かにもよるが、たいていの場合その進度はあまりにも遅すぎるので無視してもよい。考えてもみて欲しい。たった1冊を終えるのに1年にもわたる長い歳月をかけるなどバカバカしいほどの超スローペースではないか。「代々木」から「新宿」に到着するのに1時間もかかる山手線の電車くらい馬鹿げている。

そもそも、授業が超スローペースで進むのは完全に教育委員会や学校側の都合であるし、そのペースも実は学校によってバラバラであること、教師たちによって実にバラバラであることを考えれば学校の授業ペースなどは全く当てにならない。いや当てにすべきではない。

数学に至っては、そのペースはどの学校でも遅れがちであるし、遅れてしまった場合は省略されたり、ひどい場合には飛ばされたりするのが普通なのである。実は、学校の授業ペースはほとんど統制がとれておらず、学校や教師たちによって遅すぎたりムラがあったりと結構ずさんな運行がなされているのが現状なのだ。

だから、全国の高校生たちが同じ土俵で戦う「大学受験」においては、一見、同じカリキュラムを同じペースで消化してきた学生たちによって平等に争われているように見えるが、その実態は「格差受験」である。つまり、一部の生徒は授業で繰り返し学習しているが、別の生徒は学んですらいなかったという格差、あるいはムラがあらゆる教科で頻発した上で実施されている格差受験、これが大学受験の現状でもあるのだ。

このような日本の学校教育の現状を踏まえれば、子供の勉強を全て学校に放り投げてしまうこと自体が自殺行為であり「学校に任せていれば子供の成績は良くなる」とか「子供を学校に通わせているから安心だ」などと期待する親の方があまりにも愚か、あまりにも世間知らずだと言えよう。

子供の成績を上げるために親がなすべきことは本来「たくさんの繰り返し」がなされるように計画的に先導することであって「勉強しなさい勉強しなさい」と口うるさく怒鳴ることではない。親はまず、前述に示したような社会の現状、学校教育の全体像に気付くべきなのである。その全体像に気付いた上で自分で指導したり学習塾に任せたりすべきであろう。

学校に全てを放り投げることだけはしてはいけない。子供を学校に放り投げるのなら子供の成績が伸び悩むことは覚悟しないといけないだろう。学校では学習が遅れることは多々あっても、繰り返されることは一切ないからだ。「暗記」とは程遠い学習指導を与えている場所、それが学校なのである。

以上を踏まえれば、そんな学校に子供を放り投げておきながら「なんで勉強できないの?」とか「なんで成績が悪いの?」と言って子供をバカにする親の方こそがバカなのであり間違っているのである。彼らはコーヒーミルのハンドルをたった1回だけ回して「なぜコーヒー豆が全て粉砕されていないのだろう」と頭を抱えている人間とさほど変わらない。実にバカではないだろうか。

ちなみに個人的な意見ではあるが、子供たちは別に学校で良い成績をとる必要はないと思う。社会と足並みを揃えるという意味ではある程度「よい成績」をとることは大切だと思うが、それに執着し過ぎるのはお門違いだと思う。

先に述べた通り、学校の成績が良いということは所詮その子が「教科書を暗記している」ことを保証しているだけに過ぎず、それは別にその子の人間性が優れていることや、その子の知性や洞察力が優れていることを示すわけではない。人間性や洞察力に関しては今の学校教育は完全に専門外である。

そもそも、日本の学校教育は現代的ではない。日本の学校教育は江戸時代製であり、それはあまりにも古い枠組みである。そんな時代遅れな枠組みに子供をはめ込んで喜んでいる親の方が、むしろ違和感があると思う。この点に関する詳細は「引きこもりやニートで正解:学校に行きたくない人が正しい理由」を参照して欲しい。

さて、学校の成績を上げるための知恵の他にも親が子供に相続させておくべきであろう知恵はまだまだたくさんある。しかし、その全てをここで取り上げることは難しい。

優秀な親であるためには、社会について、食について、身体について、人間についてなど、実にあらゆる知恵を知ってないといけないし、その知恵を上手に教えることができないといけない。学校教育があまり当てにならないことを考えれば、親の重要性はさらに増すと思う。

たくさんの危険が潜んでいる現代社会で親になることを選ぶのであれば、無知であることは絶対に許されない。無知であるまま子育てをするのであれば子供に大きな迷惑がかかる。子供にとって親こそが唯一頼れる案内人であることを考えれば、なおのことそのように言えるだろう。

以上ような観点から言えば、子供のリュックサックに「知恵」を詰め込んであげることこそ親として励むべき仕事であり、詰め込む知恵が子供にとって有用であればあるほど、その親は「案内人」として優秀であると言えよう。

つまり「理想的な親」とは、子供にお金だけでなく「知恵」を相続させる親、未開発な社会を生きぬくために有用な知恵をたくさん教え込む親、そのようにして自分の子供に、ひいては自分の孫たちの世代に渡っても貢献を続ける親だと言えよう。

親の役割3:子に正しい教育を施す

子供に教育を施すにあたっては、甘くでもなく厳しくでもなく「正しく」教育する必要がある。子育てに関して甘かったり厳しかったりする親は多いが、本来、子育てに必要なのは甘さでも厳しさでもなく「正しさ」である。

では、正しい子育てとは具体的には、どのような子育てなのだろうか。どのような考えに基づいてなされ、どのような指針をもって実施されるのだろうか。

「子育て」というテーマはそれ自体が壮大であるので、詳しい解説はいつか別の機会にしようと考えているが、とりあえず正しい子育ての主な特徴を挙げるとすれば以下の3点が挙げられると思う。

  1. 「正しい子育て」に恐怖心は必要はない。よって子供を怒鳴る必要はない
  2. 「正しい子育て」とは感情で怒鳴る教育ではなくて、ルールで罰する教育
  3. 「正しい子育て」の基本は「褒めること」によって行動の定着を促す教育

以上の3点を守っていれば、幼児期から親離れまでの間、子育ての本質的な部分で大きく間違えたり大きく失敗したりすることは無くなるだろう。例えば、子供に振り回されてストレスを抱えたり子供から嫌われて子育てがギクシャクしてしまう危険性を大幅に減らすことができるだろう。

1.「正しい子育て」に恐怖心は必要はない。よって子供を怒鳴る必要はない

子育てに恐怖心を使う必要はない。よって子供を怒鳴る必要はない。これには異議を唱える親たちも多いと思う。「子供を叱らなかったらどうやって教えるんだ」とか「昔は近所のおじさんもちゃんと叱ってくれた。いい時代だった」とか言って子供を叱ることの大切さを熱心に弁護したりするだろう。

私はなにも「叱ってはいけない」と言っているわけではない。ただ「怒鳴る必要はない」と言っているだけに過ぎないので、どうかこの点を誤解しないで欲しい。

確かに、注意を促すという意味で「叱る」ことが有効な場合だってあるだろう。例えば、子供が1歳や2歳の時、つまり言葉の意味をあまり理解できない時期においては、親が大きな声を出して注意を促すことはとても大切なこと、間違いなく有効な教育手段となる。

歩き始めて間もない1歳くらいの幼児が、洗濯機の脇に置かれている洗剤を舐めようとした時、その時なんかは即座に大きな声を出してそれを止めるべきだろう。その幼児は大きな音にびっくりして即座にその洗剤に向けていた興味を失うに違いない。

あるいは2歳から4歳あたり、つまり脳の自己制御を司る部分がまだ十分に発達しておらず、我慢することが物理的に難しい時期であれば親が大きな声を出して警告を発することはとても大切なこと、間違いなく有効な教育手段のひとつとなる。

例えば、複数の家族と一緒に複数の子供たちを連れてレストランで食事をしている時なんかは、子供たち同士で興奮してしまって抑えがきかなくなったり、勝手に席を立って走り回ったりする場面があるかもしれない。

このような場合では、そもそも子供の方が興奮してしまっているので冷静に教え諭すことなど不可能な話なのであり、冷静に教え諭すよりは大声で一発「静かにしなさい」と怒鳴った方が有効である。

子供は大人よりも大きな音に敏感であるので、あなたが大きな声を出せば走り回っている子供たちは間違いなく静かになり自分の席へと戻るだろうし、そもそもレストランといった公共の場で子供たちを騒がせること自体がマナー違反であると思う。

2.「正しい子育て」とは感情で怒鳴る教育ではなくて、ルールで罰する教育

子育てにおいては感情のままに怒鳴ることは間違いであり、ほとんどの場合はルールによって罰するだけで十分である。子供が5歳以上であれば、なおさらそのように言える。

5歳以上の子供は言葉を十分に理解できるし、その場の空気や雰囲気だって察することができるほどに発達している。よって、子供が何か悪さをした場合には「悪いことをした」という認識がなされればそれで十分なのであり、わざわざ子供を怒鳴りつけたり威圧したりする必要はない。

恐怖によって子供を押さえつける子育ても有効であるといえば有効であるが、私が子供だとしたらそんな子育てを受けるのは絶対に嫌だし、それは誰だって同じだと思う。自分がして欲しくないことを子供にしてしまうとすれば、その時点でその親は「親」として失格だと思う。

もちろん、大きな声で怒鳴りつけたり子供の自尊心を踏みにじる言葉を使ったりすれば、子供はすぐに静かになるだろう。親の言うことにだってすぐに従うはずだ。しかしながら、子供を威圧した分その子から嫌われてしまうこと、それは間違いなく嫌な思い出になって記憶に残ってしまうことを考えれば、それは子供にとって望ましいことではないと思うし親の本意でもないと思う。

大きな声で怒鳴りつけたり子供の自尊心を踏みにじる言葉を使ったりする親が多く見受けられるのは、どちらかというと子供が未熟であるからというよりは親が未熟であることに主な原因がある。手っ取り早く子供が静かになるから、という理由もあるだろう。

自分の感情をコントロールすることが苦手な大人が親になると、感情で怒鳴ることや子どもの自尊心を踏みにじる子育てが行われてしまう傾向が強いようである。

しかしながら、子供に嫌われてしまえば親は「親」として終わりであるし、老後の介護だってしてもらえなくなることを忘れてはいけない。あなたはそのような未来を望むだろうか。

しかしながら本来は、子供を教育する際には感情で怒鳴ることは一切必要なく冷静に罰を与えるだけで十分である。子供に与えられる罰が静かであればあるほど、段階的であればあるほど、罰を受ける子供は恐怖から解放され受けている罰への理解力が発揮されることになる。

罰は段階的に大きくしていくのが良い。極端に大きな罰をいきなり与えてしまう親が多過ぎる。いきなり大きな罰を与えるということは、それだけ学習よりも恐怖や反発に比重がかかることになり、子供は自分が受けている罰の真意を学び損ねる結果になりがちである。そんなことは親も望んでいないはずだ。

例えば、中学生になる女の子にスマホを持たせている親のことを想像して欲しい。SNSは危険だからという理由で、スマホの使い方に関して親はその女の子とルールを決めている。「スマホにパスワードロックをかけない」とか「アプリのアカウントに鍵をつける」とか「知らない男性とやり取りしない」といったルールが考えられるだろう。

中学生くらいの子供にはよくあることで、やはりこの女の子も親と決めたルールを破ってしまう。親はその女の子が知らない男性(20代だとしよう)とSNS上でやり取りしている文章を発見してしまうのだ。どうやら好きなアーティストの話で盛り上がっているらしい。男性の下心が感じられる文章は見つからなかったが、男である限り下心があってもおかしくないだろう。さて、あなたならどうするだろうか。

ここで怒鳴りつける親は多い。「スマホは危ないって言ったでしょ」とか「今すぐその男性との連絡をやめなさい」とか「もうスマホは禁止です」とか言って、その女の子からスマホを取り上げてしまうのだ。

1回ルールを破ったからといって、すぐに怒鳴りつけたりスマホを取り上げたりするのは少し極端ではないだろうか。「危ないから」という親心も分からなくはないが、もっと冷静になって今回の件を学習の良い機会としたり、段階的に罰を設けたりした方がその女の子は今回の失敗からより多くのことを学べるに違いない。それくらいの余裕が親には欲しい。

例えば、ルールを破った1回目の罰として「罰金千円」というのは適切な罰だと思う。なにも怒鳴りつける必要はない。子供との話し合いで決めた罰を静かに執行すれば良いだけである。そうすれば子供からの不必要な反発はないだろうし、子供だって冷静に自分が犯した失敗を理解するだろう。

罰を与える際には、犯した失敗がいかに危険かを静かに説明すると良い。SNSで知らない男性と連絡を取ることがいかに危険であるか、どのような犯罪に巻き込まれる可能性があるかを具体的に説明できる。状況が許せば、親の先導の元その男性とのやり取りを続けさせて「男の危険性」について教える良い機会とすることだってできるはずだ。

ルールを破った2回目の罰を「1ヶ月お小遣いなし」、3回目の罰を「スマホ1週間禁止」、4回目の罰を「スマホ1ヶ月禁止」などとすれば、子供は失敗から学ぶ十分な余裕を持つことができるし、段階的に厳しくなっていく罰の意味を理解することもできるだろう。この際大切なのは、子供ときちんと話し合って段階的な罰を決定することである。ルールは親と子との間で共有されなければ意味がない。

ちなみに、「罰に現金を使うのは芸がない」とか「お金で子供しつけるのは良くない」と主張する親もいるだろうが、彼らは自分の子供たちを「夢の世界」にでも送り出そうとしているのだろうか。言いたいことは分からなくはないが、子供を送り出そうとしている場所が「日本社会」である限りはできるだけ早い時期に金銭感覚を身につけさせる教育をすることは、むしろ現実的だと思うし子供に対しても親切なことだと思う。

罰金を科すことが日本社会でごく普通に行われていることを踏まえれば、家庭においても何らかの失敗に罰金を課すことは非常に良い早期教育になるだろうし、罰金が静かに課されること、それに怒鳴り声や体罰が伴わないとすれば段階的な罰金はそれこそ非常に優秀な教育手段となるだろう。罰金を使えば、それはお金を使ったクールなやり取りになるので親子関係を不必要に傷つけないのも良い。

3.「正しい子育て」の基本は「褒めること」によって行動の定着を促す教育

子育てとは、社会的に正しい行動の定着、親が望む行動の習慣化を目指して行われる教育のことを指すのであり、そのための主な手段には「褒めること」が採用されるべきである。そもそも行動の定着、行動の習慣化に必要なのはアメであってムチではないという事実を忘れてはいけない。

これは行動心理学の分野においては非常に有名な話であるが、例えば「赤」「青」「黄色」のボタンがあるとして、動物に「青」のボタンを押すことを習慣化させたいと考える場合、観察者はどのようにしてその動物を教育できるだろうか。

簡単である。「青」のボタンを押した時にだけエサ(つまり報酬)を与えるようにすれば、ただそれだけで観察者はその動物に「青」のボタンを押すことを習慣化させることができる。非常に簡単ではないだろうか。ここでのポイントは、行動の習慣化を目指すにあたって採用すべき方針が報酬を与えることであって罰を与えることではないという点にある。

逆に、先ほどの動物にやはり「青」のボタンを押すことを習慣化させたいと考える場合に、「青」のボタンを押した時は何もせず「赤」と「黄色」のボタンを押した時にだけ体罰を与えるとしたら、その結果はどうなるだろうか。

この場合、確かに「赤」と「黄色」のボタンを押すことはしなくなるだろうが、だからと言って「青」のボタンを押すことが習慣化されるわけではない。この点を考えても、やはり習慣化に大切なのは報酬を与えることであって罰を与えることではないことが分かる。

子育てにおいても同じである。子供の望ましい行動を習慣化させたい場合に採用すべき方針は、望ましい行動を取った時に報酬を与えることであって罰を与えることではない。

しかしながら、子育ての際に逆を行っている親は多い。つまり、褒めることよりも罰を与えること、あるいは叱ることを多く行っている親が多いのだ。これでは効率的に子供を教育することなど無理な話であろう。

例えば、子供がレストランのテーブルで静かに座っている時に子供を褒める親がどれだけいるだろうか。「静かに座ってて偉いね」とか「お行儀よくしてて立派だね」と笑顔を向ける親がどれほどいるだろうか。恐らく非常に少ないと思う。多くの親は「当然だ」と言わんばかりに黙っている。

ところが、子供が騒ぎ始めた途端に多くの親は動き出す。つまり、血相を変えて子供を叱り始めるのだ。「じっとしていなさい」とか「なんで静かにできないの」とか言ってその子を叱り始める。ひどい親だとその子を強く叩く。このような光景はショッピングモールのフードコートやファミレスなんかに行けば容易に目撃できるだろう。

間違ってはいけない。子供が静かに座っていることを望むのなら子供が静かに座っている時にこそ褒めるべきであって、騒ぎ始めた時に叱るというアプローチでは「静かに座る」という行動の習慣化は起こらない。これはちょうど「赤」や「黄色」のボタンを押した時にいくら体罰を与えたとしても「青」のボタンを押すという行動が習慣化されるわけではないのと全く同じ理屈である。難しい話ではない。

このようなわけだから、子育ての基本方針に「叱る」を採用してしまっている場合、その親は子供のことをしょっちゅう叱ることになる。なぜなら、叱ることは子供の行動の習慣化を助けないからだ。子供はいつまでたっても学ばないのだからそうなるのは当然だ。親だって疲れるし子供だって疲れるだろう。

逆に、子育ての基本方針に「褒める」を採用している親の場合、その子育ては穏やかで静かなものとなる。褒めることが繰り返されれば子供は望ましい行動を学習し、その行動を定着させていくことになるからだ。親は子供を静かに褒めるだけで良い。そうすれば子供は静かに学習する。褒めることは子供の行動の習慣化を助けるのである。

以上を踏まえれば、よほど「叱ることが好きな親」ではない限り、子育ての基本方針には「褒める」を採用することになるだろう。それはただ単純に、子供を褒めた方がより簡単に正しい行動を定着させることができるから、あるいは、子供を褒めた方がより簡単に望ましい行動を習慣化させやすいからである。

さて、子育ての基本方針に「褒める」を採用すべきことは納得して頂けたと思う。前述の解説を読めば、ほとんどの親は子育ての真髄、子育ての軸とは「褒めること」であって「叱ること」ではないことに気付くと思う。では、叱ることは全くしなくていいのだろうか。アメばかり与えておいてムチは全く必要ないのだろうか。

もちろん、子育てにおいて全く叱らないということは現実的ではないと思う。親だって感情のある人間だ。ある時には感情的になったり情緒不安定になったりして子供を怒鳴りつけてしまったり、強く叱ってしまったりする時もあると思う。ひょっとしたら、そのような経験だって子供に「何か大切なこと」を学ばせる良い機会となるかもしれない。

しかしながら、子供を怒鳴りつけたり叱りつけたりして、子供に嫌な経験をたくさんさせることは極力避けるべきである。むしろ、良好な子育てとはおおよそ楽しい経験で織り成されていなければ成り立たないことは覚えておくべきだろう。具体的には「楽しい経験」と「嫌な経験」の割合を5対1程度に保つ必要がある。

そもそも、通常の人間関係であってもそれを良好に保つためには「楽しい経験」と「嫌な経験」の割合を5対1程度に保つ必要があると言われている。このことを考えれば、「怒鳴られる」とか「叱られる」という子供にとっては明らかに不愉快な出来事で織り成されている子育てとは望ましくない子育て、間違っている子育てであることは明らかである。

子育てが良好であるとは、親と子の人間関係が良好であることを意味しているのであり、これはつまり良好な子育てにおいてもやはり「楽しい経験」と「嫌な経験」は5対1程度に保たれる必要があることを意味している。

この点を踏まえても、子供にとって「楽しい経験」によって織り成される子育てこそが良好な子育てなのであり、子供にとって「嫌な経験」によって織り成される子育てはその本質において間違っていると言えるだろう。

以上が、「理想的な親」そして「正しい子育て」の概要だ。

お気付きの通り、日本社会に存在する多くの親は今まで長らく説明してきた条件の半分、いや3分の1すらも満たせていないと思う。つまり、多くの親は「親」であることに関して失格なのである。

本当は親になってはいけない大人たち、本当は親になるべきではない大人たちが何の制限もなく自由気ままに親になっているのだから、例えあなたが自分の親にイライラして「親がうざい」と悩んだり父親や母親を嫌いに思ったりしても、それはとても普通なこと、むしろ当然なことだろう。

だから、あなたが親にバカにされたり傷つけられたりしても悪いのはあなたじゃないし、勉強ができなくてしょっちゅう親に叱られているとしても、やはりあなたは悪くない。あなたは何一つ悪くないのだ。

悪いのはすべて力不足な親の方である。親になる能力もないのに「親」になってしまった人間が悪いのである。この点をどうか履き違えないで欲しい。

ちなみに公平を期すために言うならば、その親でさえも実は、その親の親から稚拙な教育を受けてしまった被害者であり、正しい教育を受けるチャンスがなかった哀れな犠牲者なのだという点は覚えておく必要があると思う。

それに、悪いのが全て親だからといって親にその全ての責任を取ってもらうことは現実的ではないし、そもそもその親には責任を取る能力も動機付けもないと思う。無い物ねだりはやめておこう。

私の理想を申し上げるとすれば、そのような無能な親のことは放っておいて、あなたの世代から理想的で素晴らしい家系を築き上げていくのはいかがだろうか。先代から続いてきた「負の連鎖」をあなたが断ち切り、新しい連鎖、愛情と知恵に満ちた家系を切り開いていくのである。

あなたが自分の子供たちのために十分な財産を築き上げ、あなたが自分の孫たちのために社会生活に役立つ知恵を教え込むとすれば、それこそ何よりも優先されるべき仕事、取り組まれるべき尊い仕事ではないだろうか。

終わろうとしている人間、つまり自分の親に対する不満に目を向けるのは時間の無駄である。そうではなくて、始まろうとしている人間、つまり自分の子供たちや孫たちの満足にこそ目を向けるべきではなかろうか。忘れないで欲しい。あなたの子や孫たちこそ、あなたの頼りになる先導を必要としているのである。

親がうざい時の6つの対策

親と同居している人の中には親がうざいことに苦しんでいる人たちも多いようだ。あなたが親と同居しているとして、あなたの親がその教育方針に「叱る」を採用してしまっている場合はなおさら大変だと思う。

その親はしょっちゅうあなたを怒鳴りつけてくるだろうし、あなたの自尊心を踏みにじるような言葉、例えば「お前なんていなくていい」とか「お前なんか産むんじゃなかった」とか言って自分の意見を押し付けてきたりする。そんな親に限って偉そうな口をたたくだろうし、なんでも知っているような顔をするのだから厄介だ。

さて、親がうざい時には6つの対策を取ることができる。しかしながら、その6つはまず2つのアプローチに大別される。2つのアプローチとは以下である。

  1. 親から離れるアプローチ
  2. 親に近づくアプローチ

「親がうざい」と感じても、あなたが望む方向性によって取るべき行動は変わってくるだろう。例えば、あなたが「とにかく親から離れたい」とか「一刻も早くうざい親をどうにかしたい」と考えるのであれば、あなたが取るべきアプローチは「親から離れるアプローチ」となる。できるだけ早く身も心も親から離れること、これがあなたの目標になる。

一方で、「親がうざい」と感じても、それは必ずしも親から離れたいわけじゃないという人だっていると思う。例えば「親が少しでも変わってくれればいい」とか「もうちょっと親と仲良くなれればいい」と考える人だっているだろう。このような人が取るべきアプローチは「親に近づくアプローチ」となる。少しでも親を変えること、少しでも親と和解すること、これがあなたの目標となる。

2つのアプローチのうちどちらを取るかは、あなたと親の現状、親に対する今のあなたの気持ちによって変わってくるだろう。ただひたすら親が嫌いな人であれば「親から離れるアプローチ」一択だろうし、親子関係を少しでも改善したい人なら「親に近づくアプローチ」も視野に入れることになる。

2つのアプローチを上手に混ぜ合わせながら少し様子を見てみたり、その時と状況に応じて2つのアプローチの比重を調整していったりするのもありだと思う。そのあたりは、うまくやって欲しい。

親から離れるアプローチ

まずは、親から離れるアプローチについて考えよう。これは、親がうざい時に「親から離れること」を目指して実践される対策となる。親から離れるアプローチとしては以下の3つの対策が挙げられる。

「親から離れるプローチ」としてまず第一に挙げられる対策、それは「親に期待しない」ことである。親には少しも期待しないこと、一片たりとも期待しないこと、もはや「親」ではなくて「なんか知らないけど一緒に住んでる人」くらいに思うのが丁度よい。

そもそも「不満」とは、何かを期待しているがゆえに湧いてくる感情だと言えるだろう。コインの「表」をひっくり返せばそれが「裏」であるように、「不満」をひっくり返せばそれは「期待」である。だから仮に、あなたが親に対して何かの不満を感じているとすれば、それはつまり、あなたは親に対して何かを期待しているということなのだ。

あなたが親に期待すれば期待するほど、それが裏切られた時の不満は大きくなるし期待が裏切られた時の衝撃や悲しみだって大きくなるだろう。

例えば、小さいころ親と何かを約束をしたことはないだろうか。親はあなたに「今度の日曜日は遊園地に行こうか」と言う。きっとあなたは期待するに違いない。「本当に楽しみだな」とか「早く日曜日が来ないかな」と期待に胸を膨らませることだろう。そして、日に日にその期待は大きくなっていく。

しかしあなたの期待は裏切られる。親が約束を破ったのだ。「仕事が入ったから」とか「面倒になったから」といって遊園地の計画はあっさり中止になってしまう。あなたはガッカリするに違いない。なぜだろうか。期待したからである。期待するとそれが裏切られた時にガッカリするのだ。

風船だって大きく膨らんでいれば膨らんでいるほど、それが破裂した時の衝撃は大きくなってしまう。不満も同じである。不満が発生するのも、もともとは期待が膨らんでいたからであり、膨らんでいた期待が破裂してしまったからである。

「親はこうあって欲しい」とか「親はこうあるべきだ」という期待、その美しい期待と醜い現実とのギャップが「うざい」という感情になって破裂するのだ。

では、どうすれば「親がうざい」という気持ちを消すことができるだろうか。どうすれば親に怒鳴りつけられたり馬鹿にされた時にでも不必要に傷ついたり落ち込んだりしないで済むのだろうか。

答えは簡単だ。親に期待しないことである。親には少しも期待しないこと、一片たりとも期待しないことである。うざい親のことは諦めてしまおう。そうすれば、あなたが親から傷つけられることは無くなる。親に対する期待が小さければ小さいほど期待が裏切られた時にあなたが傷つく度合いも小さくなる。涼しい顔をしていられるようになる。

風船だって最初から膨らませなければ、それが割れることはないではないか。期待も同じだ。期待だって最初から膨らませなければ破裂することはないのだ。期待のないところには裏切りも衝撃もない。期待のないところには悲しみだって存在しないのである。

親との縁を切るのは難しい。しかし心の縁はいつだって切ることができる。あなたがうざい親に耐えられなくなっているのなら、その時はそっと親との心の縁を切ればいい。つまり、親に期待するのをやめるのである。

「親から離れるプローチ」として2番目に挙げられる対策、それは「親の発言を真に受けない」ことである。親の言うことを真剣に受け取らないこと、適当に聞き流すこと、親の声を意味のある言葉ではなく「単なる空気の振動」くらいに思うのが丁度よい。

例えば、その人間は偉そうに「親」としてあなたを叱りつけてくるかもしれない。あるいは「親」として説教をふっかけくるかもしれない。「あんたはそもそも・・」とか「これだからお前は・・」とかいう前置きが親の口から出てくれば、それはいつものお説教タイムの始まりの合図である。

しかし冷静になって考えて欲しい。その人間はそもそも本当に「親」なのだろうか。つまり、親としての能力と素質を兼ね備え、親としての仕事を立派に果たしている人間、「親」と呼ぶにふさわしい人間なのだろうか。

あなたの答えが「いや違う。あの人は親としての能力も素質もないし、親としての仕事を果たしてもない」といったものであればその人間は「親」とは呼べない。あなたが言うんだから間違いない。

「親」とは呼べないのならその人の口から出てくる親としての偉そうな発言だって全て無効である。その発言には真に受けるほどの価値はない。その発言が人を傷つける発言であったり、見下したりする発言であればなおさらである。

例えば、医者になるための国家試験に落ちた医者の言うことを誰が真剣に聞くだろうか。国家試験に落ちた医者が偉そうにあなたに向かって言うのである。「君は頭が悪い」とか「君は馬鹿だ」と。あなたは思うに違いない。「試験に落ちたくせに何を偉そうに言ってんだ」あるいは「というか、人のことを見下す時点で医者である以前に人としてどうなんだ」と。

親も同じである。子供のことを見下す親は「親」として失格である以前に「人」として間違っている。それにも関わらず偉そうに説教をふっかけてきたり馬鹿にしてきたりするのだから、それはただひたすら迷惑な人間、人として疑問であるとしか言いようがない。

そもそも、そんな親の発言に傷つく必要はないだろう。それは国家試験に落ちた医者があなたに対して「あなたはガンだ」とか「あなたは助からない」とか言ってもそれを真に受けたり、それに傷ついたりする必要がないのと全く同じである。

むしろ、ニセ医者の言うことを真剣に受け取ってしまう患者の方、その発言を真に受けて傷ついてしまう患者の方が少しおかしいと思わないだろうか。親の発言だって同じである。そもそも親として失格である人間が「親」としてあなたに何を言おうと、あなたが真剣に聞き入れる必要はないのである。

「親から離れるプローチ」として最後に挙げられる対策、それは「親に近づかない」ことである。難しい話ではない。親と顔を合わせないこと、親と接触しないこと、できれば親と離れて暮らすことである。これができれば、それは「親から離れるアプローチ」の中でも根本的な解決策だと言えよう。

車に乗り込まなければ、その車で事故に遭うことはない。その車が車検にも通らないような危ない車なのであれば、なおさら乗り込まない方が良いだろう。「君子危うきに近寄らず」である。親と接触しなければ親から危害を受けることはない。

もちろん、一概に「親と接触しない」と言っても、その程度は人によって変わってくると思う。お金や状況が許す人であれば明日からでも親と別居することができるだろうが、お金や状況が許さない人であれば状況はそう簡単ではない。「うざい」親に悩まされている多くの人は、どちらかというと後者だと思う。

ここでは、親と別居することが難しい人、それでいて親がうざくてどうにかしたい人たちのために(一時的にではあるが)親と距離を置くための対策を挙げておこうと思う。親と別居することが根本的な解決策だとは思うが、そのようなことが現実的ではない人たちにとって参考になれば嬉しい。

だいたいこのような対策が挙げられるだろう。ここでのポイントはうざい親と距離を置くという現在のストレスを回避しつつも、勉強をしたりバイトをしたり新しい人間関係を作ったりと、将来の生活も視野に入れている点である。

さらに親の気持ちを考えてあげることも大切だ。親の気持ちも考えて「勉強」を前面に押し出したりすれば、親も意外とあっさり納得してくれるかもしれない。結局のところ、親がガミガミうるさく言ってくるのはただ不安なだけ、ただあなたを心配しているだけなのかもしれない。

「勉強しに図書館に行ってくるね」とか「資格をとるための勉強に集中したいから部屋に引きこもるね」とか、親の目から見て正当に思える理由を伝えてあげれば、ひょっとしたら親は静かになるかもしれない。気が向いた時にでも試してみると良いと思う。

さて、子供にとって「親離れ」とはごく普通のこと、昔から自然になされてきたことである。このことを考えれば2つあるアプローチの中でも「親から離れるアプローチ」をあなたが選ぶとすれば、それはとても自然なこと、むしろ選ばれるべき選択なのかもしれない。

自然界のことを考えて欲しい。ヒナ鳥はいずれ親鳥のもとを去る。それがいつかは誰にも分からない。しかし、巣立ちを決めるのは親鳥ではなくてヒナ鳥なのである。人間だって同じである。子供はいずれ身も心も親元を去る。それを決めるのは子供であって親ではない。

期待しない、真に受けない、近づかない。以上の3つの「ない」を意識すれば自ずとあなたの身と心は親から離れることになるだろう。それがいつになるか、それを決めるのはあなたである。あなたの心の準備さえできていれば、その巣立ちは明日かもしれない。

親に近づくアプローチ

「親がうざい」と感じても、それは必ずしも親から離れたいわけじゃないという人だっていると思う。例えば「親が少しでも変わってくれればいい」とか「もうちょっと親と仲良くなれればいい」と考える人だって多いだろう。

次に考えるのは「親に近づくアプローチ」である。これは逆説的ではあるが、親がうざい時にあえて親に近づき、そのようにして親の「うざさ」を少しでも緩和させることを目指して実践される対策となる。親に近づくアプローチとしては以下の3つの対策が挙げられる。

親に近づくとは、そもそもあなたに迷惑をかけるような無能な親、あなたが「うざい」と悩むような未熟な親に近づくことを意味しており、これは並大抵のことではない。

これは例えるなら、車検に通らないような危ない車にあえて乗り込むこと、触らないほうが良い「危うき」にあえて近寄ること意味しており、そもそもが非常に危険なこと、私としてもあまりお勧めできないことである。

しかしながら、あなたが「それでも私は親を変えたいんだ」とか「それでも私は親との仲を改善したいんだ」と願うとするなら、そんなあなたのために役立つ対策があるにはある。それが前述に挙げた3つ、つまり超える、認める、褒める、なのである。

本来ならば親が子供に対して向けるべき事柄、つまり「認める」と「褒める」が含まれているのだから、「親に近づくアプローチ」としてまず第一になされるべきは間違いなく「親を超える」ことであろう。

精神的に親を超えていなければ、まるで子育てでも実践するかのように「認めること」や「褒めること」を自分の親に対してできるわけがない。このような意味でも「親に近づくアプローチ」は「親から離れるアプローチ」と比較すればあまり自然ではない選択、難易度が高い選択となっている。

「親を超える」とは難しい概念ではあるが、それはおそらく精神的な意味で「その人間の子供である」という考えを捨てること、あるいは、その人間よりも高い次元で世界を考えるといったことが関係すると思う。

その人間が自分を生み出したという事実、その人間が現在まで育ててくれたという事実をひとまず忘れること、あるいは、ひとまず脇に置くことまでも関係してくるかもしれない。

実は、あなたの方から未熟な親に近づいて親を変える、あるいは未熟な親との仲を改善するためには、まずは精神的な巣立ち、つまり精神的に親から離れることがなされないといけない。言い換えれば、あなたが自分の親を「親」と見なしている間は、あなたが親を変えることは難しい。

なぜなら、精神的に親離れしていない状態のままあなたが親に近づけば、例えその親が「親」として無能であったり未熟であったとしても、やはりあなたはその親に愛情であったり思いやりであったりを求めてしまうことが予想されるからである。

しかし、その親は未熟であるのであなたに愛情や思いやりを与えることができない。つまり、あなたと親は衝突するのである。

親と子の枠組みで世界を考えるということは、そこには必然的に「与える親」と「受ける子供」という概念が介在してしまうことになり、この概念は間違いなく邪魔である。

これからあなたは親よりも先に「認めること」や「褒めること」を親に対して与えようとしているのだから、こういった概念が邪魔をするであろうことは目に見えている。

分かりやすく説明しよう。例えば、あなたとあなたの母親が、大きな震災のせいで学校の体育館に避難している場面を想像してみて欲しい。体育館の床に敷かれた青いビニールシートの上で、あなたとあなたの母親は毛布にくるまって支援を待っている。ラジオからはニュースが流れてきているが、結構ひどい震災だったらしい。

数日間飲まず食わずが続いた後、ようやく救援隊からの食料が到着する。待ちに待ったツナおにぎりと緑茶のペットボトルだとしよう。届いた数が少なかったようで、今回は1つの家庭に一人分のおにぎりと一人分の緑茶しか支給されない。さて、ここで問題である。あなたとあなたの母親、どちらが率先して分け与えるべきだろうか。どちらが率先して我慢するべきだろうか。

多くの人は「母親が率先するべきだ」と答えると思う。「半分に分けるとしても、母親は子供に大きい方を与えるべきだ」とか「まずは子供に食べさせて、母親は我慢するのが理想だ」といった具合だろう。これがつまり、親と子の枠組みで世界を考えるということである。

あなただって、もしこのような状況に自分の母親と一緒に置かれているとすれば、自分の母親よりも先にツナおにぎりにありつくことを期待してしまうだろうし、我慢すべきなのはどちらかといえば母親の方だと自然と考えてしまうと思う。これがつまり親と子の枠組みで世界を考えるということである。

さて、未熟な親を変えようとするのであれば世界を逆転させないといけない。つまり、まず子供が我慢しないといけないのである。子供が率先して親に「おにぎり」を与えないといけないのだ。

まず親に食べさせてから、そして子供が食べるのである。なんとも不自然な光景ではないだろうか。しかしながら、あなたがやろうとしているのは、これである。

未熟な親は「親」として未熟であるので、子供に愛情や思いやりを与えることができない。持っていないものを与えることなどできないのだから、それは当然だと言えよう。

しかしながら、そんな未熟な親からでも愛情や思いやりを引き出すことは可能である。どのようにして引き出すのだろうか。いったいどのようにすれば、そんな手品みたいなことが起こるのだろうか。私からの提案はこうだ。物理の法則を使うのが良い。つまり、作用と反作用の法則を使うのである。

例えば、ただの壁から突然ボールが飛んでくることはない。しかしながら、あなたが壁に向かってボールを投げるとすればどうだろうか。そのボールはあなたの元に跳ね返ってくる。親にもこれを利用する。

大前提として、その親は未熟であるのでそもそも持っていない愛情や思いやりをあなたに与えることなどできない。しかしながら少し考えてみて欲しい。もし仮に、あなたが親に向かって愛情や思いやりを投げかけるとすれば、どうだろうか。そうだ。愛情や思いやりがあなたの元に跳ね返ってくるのである。

具体的な話をしよう。例えば、あなたの親があなたに対して説教をふっかけてくるとする。「あんたは本当に出来損ないだ」とか「あんたなんか産まなきゃよかった」とか言う。それに対してあなたは次のように返すのだ。

「迷惑かけてるね。ごめんね」あるいは「苦労かけるな。悪いな」と。殴りかかりたい気持ちは今回だけはどこか別の場所に置いておこう。まずは親を「認める」のである。

次は、親を「褒める」段階だ。ことあるごとに親に「ありがとう」と言ってみよう。別にきっかけなど必要ない。冷蔵庫に飲み物を取りに行った時、あるいは親と一緒にリビングにいる時なんかに何の理由もなしに声をかけるのである。

「そういえば最近思うんだけど、色々ありがとね」とか「色々文句は言ってるけど、本当は感謝してるから」という具合に。

親からしたら、突然あなたの頭が狂ってしまったのではないかと思うに違いない。つい昨日まで激しく言い争っていた我が子が突然「ありがとう」だの「感謝してる」だの言い始めるのだから、最初の方は親の方も面食らって「は?」とか「頭でも打った?」とか言ってくるだろう。あなたの方だって気恥ずかしさを乗り越える必要があると思う。

しかしながら、これをしばらく続けていると大きな効果が期待できる。作用と反作用の法則は人間関係にも当てはまるのである。あなたは作用を与えているのだから、親から何らかの反作用を引き出すことは間違いない。

うまくいけば1週間程度で親が変わっていくのが観察できるはずである。親はより優しくなり、思いやりの言葉すらかけてくるようになるかもしれない。あなたの投げたボールが壁に当たり、跳ね返ってきたのだ。これは成功のケースである。

1ヶ月続けてみて親に何の変化もなかったとすれば、それは失敗のケースである。1ヶ月の間、親の悪態に目をつぶってやり、逆に親切や思いやりを投げ続けたとする。それでもなお親が変わらなかったとすれば、その親は人として大きな問題を抱えていると結論付けて良いだろう。

ボールを投げたとしても、そもそもその壁に問題があれば投げたボールが跳ね返ってくることはない。壁が大きな問題を抱えていることが分かった時、その時はボールを投げるのを諦める時だと思う。

以上が、「親を変えたい」あるいは「親との仲を改善したい」と願う場合に考えられる「親に近づくアプローチ」である。それは親を超える、親を認める、親を褒めるの3段階から構成されており、物理の法則(作用と反作用の法則)を親子関係に応用したものとなっている。

さて2つのアプローチを考えてきたが、いかがだっただろうか。あなたはどちらのアプローチを選択したいと思っただろうか。「親から離れるアプローチ」だろうか。それとも「親に近づくアプローチ」だろうか。

一概に「親がうざい」と言っても、そこから広がっていく可能性は人それぞれだろう。ある人は「うざい」という感情をキッカケに親から離れるだろうし、別の人は「うざい」という感情をキッカケに親との距離を縮めるだろう。

親から離れるにせよ近づくにせよ、それがあなたの幸せに繋がっているならどちらを選んでも良いと思う。親の幸せよりも自分の幸せを優先して欲しい。

まとめ

今回の記事は、前回や前々回の記事と比べて少しばかり分量が多くなってしまったようである。しかしながら、それだけ社会の健全な運営においては家庭が大切であり、それだけ現在の日本家庭の現状には問題を提起せざるを得ないということなのだと思う。

そもそも、日本に存在する社会問題の大半は家庭に原因があるので、日本社会の問題を語るときには日本社会の家庭を語ることは必然だと言える。これは、川の下流の問題について論じる際には川の上流にまで遡ることが必然であるのと同じである。

今回の記事では社会のだいぶ上流にまで遡ったと思う。つまり各々の家庭について、その大半が抱える欠陥や問題点についてだいぶ深く考察できたと思う。

仮にあなたが未熟な親のせいで深く傷ついていたとしても「あなたは一切悪くない」ということ、「悪いのはすべて未熟な親の方である」ということが、しっかりと伝わっていれば嬉しい。

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